【日本史】大局が読めない上杉景勝の判断ミスがなければ徳川家康は関ヶ原で負けていた ★4 [ボラえもん★]
■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています
上杉景勝は軍神・上杉謙信から家督を相続し、会津120万石を与えられた豊臣五大老の一人だ。
だが秀吉の死後は家康の術中にまんまとはまり、上杉家の存続こそ許されたものの、所領は30万石へと大幅に減封されてしまった。
東京大学史学編纂所の本郷和人教授は「失敗の理由はただひとつ、彼が大局を見極められなかったこと」と説明する――。
■会津120万石という大領地を与えられた理由
上杉景勝は関ヶ原のときに、二重の失敗をしでかしています。失敗の理由はただひとつ、彼が大局を見極められなかったこと。
関ヶ原の時点で、彼の領地は会津でした。会津は東北の要の地であり、ここを持つ大名が東北のチャンピオン。
その地を伊達政宗が取った。しかし豊臣秀吉に「もう戦争の時代は終わった。俺の家来になれ。挨拶に来い」と言われ、
いろいろと渋りましたが、結局、家来になる。会津は取り上げられて、「おまえなら任せられる」ということで蒲生氏郷に与えられます。
そこから氏郷は見事に秀吉の期待に応え、怪しい動きを見せる伊達政宗の活動を封じる。
それで92万石まで領地が増やされるも、40歳で亡くなってしまいます。
しかし後継ぎがまだ幼なかったために秀吉は会津を蒲生から取り上げ、その会津にあらためて置かれたのが上杉景勝でした。
上杉は越後から国替えされるのですが、そのかわり、120万石という大きな領地を与えられた。
その配置には「東北地方の抑え」という意図と、恐らく「徳川の背後を牽制する」という意味合いがあったと思います。
ところが国替えののち、すぐに秀吉は亡くなってしまう。それで徳川家康の活動が活発になっていく。
■「大きな戦争」を狙っていた徳川家康
当時の家康がなにを狙っていたかというと「大きな戦争」です。戦争を起こして、どさくさまぎれに豊臣の政権を奪取したい。
これは秀吉が、織田の政権を奪取するときに行った方法と同じです。
明智光秀を始めとして柴田勝家らと、戦争に次ぐ戦争をやる。そのうち、いつの間にか織田家の政権は秀吉のものになっていた。
だから家康も、列島規模で大きな戦いを起こしたかった。それに勝つことで豊臣政権を否定し、徳川政権を作ろうとしたのです。
(中略)
■前田家の次に家康の標的になった上杉家
三成を離脱させたあとの徳川家康はやりたい放題。戦争のためには相手が必要だということで、最初に目をつけたのが前田家でした。
利家の息子、利長の代になっていた前田家に「謀反の動きあり」と難癖をつけたのですが、前田はすぐさま謝ってきた。
自分の母親、もう高齢になっていたお松さんですが、お松さんを人質として江戸に送りますと、文字通り土下座外交を展開しました。
よくよく考えてみれば、それはおかしい。当時はまだ豊臣政権下ですから、本来家康と利長は同僚です。
同僚のところになぜ人質を出すのでしょうか。しかし利長は家康の意図をきちんと理解し、徳川に優る力が自分たちにないと理解していたからこそ、謝った。
そこまでされれば家康も「謀反はなかった」と疑う姿勢を解き、お松さんは江戸に送られます。
では次に誰を狙うか。「大きな戦争」を起こすには、相手も大きくなければなりません。三成のような小物ではダメ。そこで狙われたのが上杉景勝でした。
今度は彼に謀反の疑いがかけられます。もちろん濡れ衣でしょう。
しかしこの流れは前田と同様で、もう誰もが家康が理不尽なことを言っているのはわかっている。
家康も、自分が無茶苦茶なことを言っているとわかっています。わかっていても、狡猾こうかつな家康はそんな自分に誰がついてくるか、こないのかを見定めていたのです。
(以下略、全文はソースにて)
https://president.jp/articles/-/45133?page=1
★1が立った時間:2021/04/29(木) 12:16:14.52
※前スレ
https://asahi.5ch.net/test/read.cgi/newsplus/1619783512/ ところが大局を読んだ秀忠が上田城にかまける振りして
アンブッシュしてたから追撃しても撃破されましたとさw いつまでやんだよ。因みに秀吉は男色を嫌悪してたな。庶民の感覚だ。 なんでこのスレこんなに伸びてるんだ
上杉景勝ってそんなに人気がある武将だったのか 景勝と直江が有能なら日本の歴史が変わっていたな。
まあ、今の日本がどうなっていたかはわからん。 つか読んだとして、
南進するの??
後ろに伊達最上いるんだけど?
合わせて100万石の大勢力、
伊達最上への守り残して、
南進しても
宇都宮城すら突破できんでしょ? むしろ毛利や島津が働いてない中互角に戦ってた西軍は凄い。 >>14
歴史のIF好きが多いだけだろ。
景勝が好きか否かは関係ない。 上杉の領地は石高だけの糞領地
海がほとんどなく経済は死んでる上に領地の繋がりが悪い
転封されたばかり
上杉討伐で徳川が来る前に
伊達に白石城を攻め取られている
上杉が南進すれば、最上は簡単に酒田を切り取り
伊達はガラ空きになった会津を攻め落とすだろう
何せ、伊達は会津の旧領主
白石が簡単に落とされたところをみても、
上杉領内の事を熟知している 東西決戦が1日で決着がつくとは誰も考えてなかっただろ
実際、関ヶ原以外の日本中のあちこちで篭城戦やら遭遇戦が起きていたし、
こういう状況なら戦いは長引くと判断するし、事実上戦国時代が再現しつつあった
景勝が判断ミスなら九州で暴れまくった黒官だって何やってんだと言うことになる
結果だけ見て都合の良い解釈をする本郷は三流の小説家以下 まだ続いてんのかー。
関ヶ原の敗戦が現在まで影響してるから、関西人が恨んでんの? 御館様がこの記事をご覧になられたらなんと申されよう 豊臣の天下が続いてても暗黒歴史だったんじゃないの? なんぼなんでも、三成が半日で負けるとか想定できんわな。 >かつてあの織田信長でさえ、背後を突かれることがわかるや、すべてを放り出して逃げました。
それ、「金ヶ崎の退き口」の事を言っとるんだと思うけど、その話は相当に脚色が入っとると思われますな。
実際には、秀吉を城代として金ヶ崎城の守りに付かせ、信長は悠々と帰ったと思われますな。
秀吉が金ヶ崎城にいれば、そこを抜かないかぎり、朝倉は信長のあとを追えませんからな。 >>25
だな。
真田は秀忠の軍を引き付けてたし。
三成がもちっと互角に戦えてれば、上杉も動きようはあったんだけど。 人は記憶型と思考型に大別できる
100万石以上でみるとこんな感じだ
豊臣秀頼 VS 徳川家康
毛利輝元
前田利長
上杉景勝
前田が屈した段階でほぼ決まり
関ヶ原まで家康は豊臣政権下の争いとしてたから実質はこうなる
毛利輝元 VS 徳川家康
上杉景勝 . . . . 前田利長 >>25
本郷は話にならん
1日で終わるなんて家康でさえ現場に行くまでは考えてねーよ
自分だって秀吉と散々陣地戦やってんだから
そうなるとあの時の上杉の置かれた情勢見たら最上攻めしかねーだろ
関東には留守部隊といえども徳川軍がいる
こっちは佐竹に任しとけばとりあえず安全
越後は一揆で混乱しているからこちらも安全
浜通りは佐竹の組下だから安全
伊達とやり合うのはまだ早いし伊達も交渉申し入れて来てるからとりあえず時間稼げる
となると飛び地になってる庄内つなくために最上ぶっ潰しとくかとなるわ、論理的に
景勝の行動は極めて論理的だよ そんなこと言ったら家康も毛利と島津を徹底的に
滅ぼしといたら子孫が苦労しなくてすんだのに >>25
正直言って上杉景勝と直江兼続の判断ミスは否定出来ないんだよ
味方が仙北の小野寺義道だけという状況で最上領に軍を動かしちゃったんだから
しかも越後から移転する際に直江が年貢から何から何まで根こそぎ持っていったせいで
苦境に陥った新領主の堀氏に「おのれ直江!この恨みいつか絶対晴らしてやる!」と憎まれてしまい
直江を憎みきっている堀氏に背後を脅かされるという致命的なミスをやらかしちゃってるんだから >>22
さすがに「経済は死んでる」は今の会津,米沢の人に失礼だと思いますが、他はよく研究されておりますな。
背後に伊達,最上がいる以上、徳川のあとは追えんでしょうな。 そろそろ、上杉はどうやったら最上を攻略出来たかを考えようぜ 毛利がクソで決着がついてるぞ!
特に、両川がクソすぎて。
あと立花宗茂らが大津から転戦して来るのを待てなかった三成も悪い。
大坂で西軍の残党を集めて徹底抗戦すればまだ少しは可能性があった。 >>39
あれは家康が西軍の戦力が集中する前に決着つけようと勝負したからな
秀忠待たないで
あの場に家康以上の能力ある指揮官がいないとダメ
西軍にそんなやついないじゃん
輝元ボンクラなんだからw
せめて隆景が生きてたら違ってたのになw >>9
輝元自体が敵対するきないって家康に手紙送ってるし
毛利家でやりたがってたのに安国寺だけ 景勝なんてひたすら転げ落ちただけだし、なんで直江兼続が有能扱いなのかわからんわ >>33
浅井は撤退こそしちゃったものの信長を攻める気はなかったと思われますな。
なんせ信長軍は幕臣光秀も参陣している官軍ですからな。 元就は輝元には非常に厳しい祖父だったようだが危惧してだんだろうな
そして危惧は当たってしまった >>44
毛利家は天下狙うなっていう元就の遺言の影響もあるかと >>41
あの元就の孫がどうしてここまで間抜けなんだろうw 前スレのまとめ
・「西軍が豊臣の忠臣の集まり説」は間違い
→秀吉は毛利を信用してない
・「家康が天正大地震で助かった説」は間違い
→秀吉は島津と家康との二正面作戦を避けた
・「秀吉の天下統一終盤は楽勝だった説」は間近い
→九州攻め・小田原攻め共に兵糧切れ寸前だった >>40
いやー、あの関ヶ原の布陣は完全に西軍の勝ちだぜ?
あの布陣を三成が考えたとすると、なかなかの軍師だぜ?
小早川の裏切りさえなければの話だけど。 >>48
兵站きちんと整備するなんて20世紀にようやくできるようになったことだからね
戦国時代の大軍の動員は常に飢えと一体 >>41
それはおかしいやろ
だったらなぜ関ケ原に出兵したり、
大坂城を占拠したりしたのか?
輝元はどっちに転んでも良いように
西軍には「東軍と通じてたのは部下が勝手にやったこと!」
東軍には「西軍と戦ったのは部下が勝手にやったこと!」
という風にしてたのだ
当時だと戦闘・和平を並行してやるのは、ごく普通のこと >>49
前日が雨で山の上の軍は自由に動けないから平地に多かった東軍の方が有利だったって話も 結果論でそのように指摘するのはいかがなものか
関ヶ原で毛利勢が確と戦えば小早川の寝返りもなく
西軍が圧勝した可能性もあったのではなかろうか 石田三成に人望があればそもそも争いなんておきなかった。 >>46
父親が早死するってけっこう大変だからな
両川といってもそれぞれに国持ちだし、元就だって孫に厳しく教育することはできなかったんだろう >>49
1番強い立花と秀包が居ないんだから失敗だよ
戦いは戦力の集中が1番大事
家康はあえて自分の兵力の集中を犠牲にして西軍の主力が決戦に参加しないように兵動かして決戦した
大津の軍を合流させないように戦った時点で家康の勝ち
布陣じゃないのよ勝敗は >>50
何いってるの?
逆だよ、飢えがあるから大軍の動員が難しく、専業の兵でもないから春秋は戦えない。
それを打破したのは信長であり秀吉。 >>57
打破してないよ
信長も秀吉も大軍の飢えに苦しんだ記録たくさん残ってるよ 家康は5大老を一人ずつ消していった。上杉が土下座しても
いずれ消される。
当時は西高東低と言うが、東西の兵が直接対決すれば
東の兵が強いことは源平時代からの合戦を見れば明らか。
目の前の前田を消した後は、東の難敵上杉をつぶしにかかる。
その後は強大な東国兵を組織した家康に、西国軍閥は恐れ
をなして屈服せざるを得なくなる >>53
だから、最近、TVでやった「歴史探偵」によると、玉城に秀頼を迎える予定だったようで、
秀頼さえ参陣していれば、毛利,吉川,小早川も家康と戦ったと思われますな。
秀頼がいなかったので、「俺らは石田ごときの命には従わねぇ」って感じで動かなかったと思われますな。
あ、小早川は裏切りね。 景勝がかりに家康の首狙って出陣してても結城抜けないんじゃね?
その間に政宗あたりに領土取られてそう 大津城主の京極高次は存命中から「女房の力で出世したヘタレ」と評判が低かったが実はすごかったりする
立花宗茂や毛利秀包といった西軍の精鋭を釘付けにして関ヶ原に参戦出来ないようにしたんだから
もっと評価されていい気がする まぐれで勝った関ヶ原だから、さぞや鎧も軽かったろうな
黒田官兵衛は苦笑いだったに違いない 関ヶ原の開戦直前には西軍多数絶対有利が事実だったんだから伊達も最上も様子見体制
だから江戸は上杉の派遣軍だけで落せた
江戸占領の実績後は関東一円と伊達最上にも与力を要請できた
直江兼続はそう主張したが景勝は様子見を選んだ
しかし上杉が江戸の幕藩体制を築けたかは疑わしい
なぜかというと所謂幕閣が貧困だからだ >>60
そのテレビ番組に限らず、根本的に認識が逆なんだよね
石田が勝手に始めた戦いに秀頼が参陣することなどない
石田の勝手な戦に秀頼が駆り出されるなら石田が秀頼よりも偉いことになってしまう
もしも秀頼が参陣する可能性があるとするなら石田が秀頼抜きで圧倒的勝利を収めて
豊臣家が西軍の力にひれ伏さざるを得なくなった場合だけだ
関ヶ原に秀頼が参陣すればとか言っている時点で順序を間違えているんだよ >>60
そこは異論のない所
秀頼が出馬すれば毛利勢もさることながら
福島をはじめ豊臣恩顧の武将達は矛先を変えるか傍観するしかなかった筈 >>60
その番組で豊臣家が石田一方につくことはありえなかったとも言ってなかったか >>65
まともな事を言って歴史のロマンを削ぐのは良くないよ
正論を滔々と述べ立てて嫌われる鼻つまみ者だろおまえ >>61
福島城は撃退してるからそう簡単には取られんだろ
上杉と結城がやりあってる隙に佐竹が江戸進撃ならワンチャンあったかもしれん 浅井は信長を裏切るときに、なぜ人質も同然の信長の妹とその子を皆殺しにしなかった
のだろうか? >>32
ちょっと例えが違うけど、ヒトラー以外割と日独伊ソで英国解体を他の首脳陣がイメージしてたけどソ連攻撃でみんなびっくり詰ゲーみたいな >>70
戦国時代に実家と敵対したからと嫁子供殺した武将なんて思いつかんよ
似た事例で家康が築山殿と信康殺してるけどあれはどうやら家康VS信康の親子の争いのようでそれなら戦国時代に掃いて捨てるほどある事例になる 毛利一族がやる気ないんだからどうしょもないw 元就も草葉の陰で泣いてたろうな
やらんなら総大将受けるなよ。毛利の両川もいねえからどうしょもなかったのか >>74
いやほんと
家康に保険かけるくらいなら最初から西軍の大将になんかなるなよとw
輝元って性格が卑しい逸話が沢山残ってるからな
基本カスでクズなんだよ >>1
>当時の家康がなにを狙っていたかというと「大きな戦争」です。戦争を起こして、どさくさまぎれに豊臣の政権を奪取したい。
家康も光成の挙兵とそれにあんなに多くの大名が呼応するとは思ってなかっただろ
光成挙兵で真っ先に反転西上しようとしたのは諸将で家康は慎重に江戸を動かず各地の武将に書状を送って味方を増やす工作に没頭した
伊達最上ら東北の大名の意向を確認したうえでようやく家康も西に動く
それも先ず秀忠に徳川主力を率いて先発させ、自分は最後にと言う用心深さ
その秀忠は関ケ原に間に合わなかったわけで家康も誤算だっただろ >>4
石田派の大名の方が割とまともな人が揃っている
現実には石田派が動員できた兵力が少なすぎた
西軍は大軍だけど、ほとんどが様子見だった そもそも上杉征伐は事前に家康と計画された三成おびき寄せの工作だからね >>76
そう
確かに家康は大きな戦い望んでたけどそれは自分が一方的に有利な展開前提だから
関ヶ原みたいな大事になること予想してたならその後の家康の行動は説明つかないわな >>65
石田三成は絶望的に人望ではなく
淀殿に嫌われていたことが全ての敗因です それにしても2ちゃん→5ちゃんは、今や完全に、行くところのない団塊ジジィの日向ぼっこ談笑スレ 別名・養老院w >>60
玉城を主城にして、菩提山城、松尾山城の支城と連携して東軍を包囲殲滅する計画だったってやつか
なんでとっくに家康方に鞍替えしてる竹中重門の菩提山城がちゃっかり西軍の勘定の内に入ってるのか意味不明だった 大坂の陣で、毛利が部下を豊臣方に送ったとか
戦後に豊臣の武将を伊達が受け入れたとか
伊達と毛利は、大坂の陣でもまだ諦めていない感じ >>78
大軍になるほど金や食料の消耗が加速度的に大きくなるからね
西軍は朝鮮で消耗した西国大名の割合が東軍よりも大きいことに加えて
豊臣家から軍資金と兵糧を貰えていないので自分で自分を維持できる状態ではなかった
むしろ西軍は大軍だからこそ、ほとんどが様子見にならざるをえなかった
逆に東軍は朝鮮での疲弊を免れた東国大名が西軍よりも比較的多かったことに加えて
豊臣家から事前に軍資金と兵糧を貰っていたことで
行こうと思えば一気呵成に突っ走れる有利な状況だった 戦国時代の一番面白かった時期の話を雑談できて知らなかったことや違った目線の意見も聞けてこのスレは良スレだね 上杉なんて大して結果に影響はない
秀頼を出馬させなかった毛利輝元と淀の大局観のなさが原因 和平と戦闘を並行するのはともかく
どちらも部下のせいにして逃げられるように手を打つ
毛利は当時的にも信用が低いのではないだろうか?
だから秀吉や家康は信用しなかったんだろうな 4スレ目?
ノビテールな
ソース元が長そうでよめない >>48
>九州攻め・小田原攻め共に兵糧切れ寸前だった
そうなの?
小田原なんて城を取り囲んだ秀吉軍がやる事なくて暇でしょうがないから毎晩宴会開いてたとか言う話だがw >>79
家康は、小規模な三成の蜂起くらいは予測してたようだが、
蓋を開けたら、毛利、宇喜多が筆頭で名を連ねたので
あわ喰ったようだ さっさと上洛して敵意のないことを明らかにしていたら家康も上杉を打つ大義名分などえられなかったからな
むしろ直江は家康のスパイだった思えるくらい家康にとって好都合な行動をとっている 歴史ってのはな
大体想像と妄想の産物なんだよ
書物だって創作の可能性あんだから >>92
当時だと10歳前半に初陣させるのが普通で
まだ数え8歳の秀頼が出陣しないのは当然では?
しかし20代になった大坂の陣ですら
出陣していないから無理だろうな
秀頼しかいない豊臣家に
秀頼に死なれたら断絶してしまう >>41
毛利家では安国寺だけが事の重大さを分かっていたんだよな
豊臣政権で毛利小早川は散々優遇されていたんだから、
家康の天下取りを全力で止めて、自ら秀頼を擁しつつ天下取りに向かうしかなかった
家康を潰さなければ、家康に潰される!
殺るか殺られるか!
これが分かっていたのは家康と安国寺だけ!
結局毛利や吉川はアマチャンなんだよw
どうして家康が自分等の重役ポジションそのままにしてくれると思えるんだよw
毛利潰さなければ与える恩賞ないからなw >>101訂正
大坂の陣の段階だと秀頼の子供がいるんだった
しかし幼い子供を残して死んだら大変だろうし
やはり出陣は無理だろうな 前スレでも関ヶ原の時の黒田如水の話が出てたが、関ヶ原の時第三勢力となってあわよくば天下をって言う俗説は
慶長5年10月4日付吉川広家宛黒田如水書状の中の
「上方で美濃口においての合戦が今月まで続いていれば、中国地方まで進軍して華々しく一戦することが出来たのに、内府が早く戦いを終えてしまい残念だ」
ってのが俗説の根拠になってると思うけど、そもそも中国地方は毛利の領土だし
それを堂々と毛利方の吉川広家に話すのもおかしな話で、やはり如水は関ヶ原の直前直後の一次史料からも分かる通り終始一貫して家康方で、
あくまで家康の味方として中国地方まで進軍して、西軍の連中が仮に中国地方にまで勢力を伸ばしていれば
私も一合戦できたのにという解釈が妥当だと思う
更にこの書状の続きでは
「西軍に属した島津義弘や立花宗茂は九州へ逃げ下ったそうなので
内府様の意向に従い、その仰せ次第では二人を討ち果たすために出陣する」
と言ってるし自ら進んで家康に敵対しようなんて気はなかったと見るべきだな しかししつけーな
こうすれば西軍が勝った云々
無意味なんだよ >>104
毛利や上杉は信長に滅ぼされる寸前だったのを本能寺という神風で助かったどころか
大老まで出世できてしまったので
のらりくらりやっていれば神風が吹いて助かるという神風思想が染みついてしまったからね
だから家康と敵対しても先頭に立って家康と戦うことをしないのは当然
そうやって自分たちのために神風を起こすのはあくまで別人のすることだから >>102
別に軍が孤立しているわけではないので
兵糧が「不足」し始めてもなかなか切れないもんなんだよ >>104
動かなかったのに大減封だもんなぁ。
上杉よりも毛利の方が大局を見誤ってるよな。 >>104
小早川系は理解してた
だから秀包や秀元は積極的に動いてるだろ
残念ながら親玉の隆景が死んだから家中の影響力が下がってたんだよ
秀包や秀元は有能だけどまだ若造
安国寺は所詮坊主
吉川は無能なお坊ちゃんで毛利本家直属家臣にもろくなの居ないから
何より当主の輝元がボンクラの極みだから無理だわなw >>104
毛利が最初から臣従しても江戸時代初期の改易祭で
やられたかもしれないが…
少なくとも家を守るだけのつもりなら従属で大丈夫だろ
関ケ原以前に従属したのに
改易された加藤や福島も家は存続している 大局が読めなかったのは別に関ヶ原の戦いだけではないだろ
謙信死んだ後から大局は読めてなかったし
本能寺の変がなければ滅ぼされていたし >>14
部下に、傾奇者でパチンコキャラで人気になった前田慶次がいるからじゃね。 >>112
甘いな
大勢力なんていつ難癖つけられて潰されるかわかったもんじゃないだろ
ましてや毛利なんて美味しいとこ押さえてんだからそのままにしてもらえるなんて甘過ぎる願望だよ
元就が当主なら絶対そんな甘い期待しないぞ >>65
>石田が秀頼よりも偉いことになってしまう
そうはならんだろ
まあ三成が主導権を握る形になることで相対的に豊臣の権威が下がると言うファクターはあり得るけれども、
このケースでは秀頼が幼少と言う時点ですでにその分は織り込み済みとも言えるので、
三成の挙兵に乗ったところでほとんど権威にマイナスはない 前田、上杉と次々にいちゃもん吹っ掛けて潰しに掛かってるんだから
次はもしかしたら自分の番かと危機感を持つはずなのに輝元は静観してるんだもの
敵意を持ってるかもしれない徳川を引きずり下ろす好機なのにみすみす逃すなんてマヌケとしか言いようがないわな >>111
吉川は無能というか恵瓊が大嫌いで
アンチ恵瓊として頑張り過ぎた >>117
元就なら家康とニコニコ交渉はするだろうが絶対信用なんてしない。
そしてどこかに仕掛け入れて家康を潰しにかかるよ
間違いない
そうやって生き延びてきた男だから 光成じゃどのみち無理ゲー
根回し力調略力が家康と桁が違う
どうにか戦えたのは秀吉の力の残り火のお陰だし 結局、大谷吉継が三成に指摘していたように、西軍勝利を信じてついた将はいなかったってことでしょうね
だから上杉も博打よりも自国勢力圏の防衛を優先した。
増田や長束のような三成の決起の中心にいた人物も、敗戦後の保身のために家康に動静を伝えていたというしな >>120
毛利では家康に勝つのは無理だよ。
兵力が違い過ぎる。 >>111
むしろ秀包や秀元の方が若造だから理解していなかった
過去30年間の歴史を見れば明白だろう
信長・秀吉の天下取りを認めない、俺が合戦で止めてやると勇んだ奴は大勢いたが
上手くいかずに多くが悲惨な最期を遂げる羽目になった
こういう天下取りの流れができたら諦めて抵抗しないのが最善の選択肢だと吉川たちは理解できていた
それでも秀包や秀元は若造だから仕方がない
真田・島津・立花みたいに中央の歴史を知らない田舎大名も仕方がない
輝元はいい年こいて中央の歴史も知っているのに浅井長政ごっこ・柴田勝家ごっこを始めてしまうのだから質が悪い
むしろ吉川たちはよくやった方だろう >>123
元就が陶と戦った頃と比較したら十分戦える勢力差だよ 石田三成も秀吉のイエスマンじゃなくて、悪いことはちゃんと諫めてたらここまで嫌われなかっただろう
毛利輝元みたいなポンコツを大将にしてる時点で負け確定。関ケ原でいい勝負しても負けたと思う
歴史は噓をつかない >>126
当時の大名や各地方の国人は荒々しい武闘派の連中が多かったから
中央のもやしはクッソ嫌われてたと思うぞ
逆に秀忠とかは現在では無能扱いだけど身体は戦傷だらけだったらしいから
当時はそんなに評判悪くなかったんじゃないか 前田利長・・・ヘタレすぎ
毛利輝元・・・無能すぎ
石田三成・・・嫌われすぎ せっかく毛利は割拠主義の家風だったのに、何で一番になろうと思ったんだよw
輝元はアホや。家康に譲って中国でそこそこ領土もらった方がいいだろうに 前田利長と福島正則と加藤清正が
西軍に付いたら勝てたかな? >>133
そんな戦力バランスになるんじゃ家康は事を起こさないだろ >>134
家康は豊臣方の大名1人1人を徳川の
味方に付けて
西軍を弱体化させてから
戦争しかけてるよね
前田利長と福島正則と加藤清正と
黒田長政が西軍に付いてた
勝てたかな? >>132
あほじゃないだろう
関ヶ原の戦いの後
毛利が存続したから
260年後リベンジで徳川を倒して
輝元のやり方は間違ってなかったんじゃねえの?
あれ以上暴れてたら
領土と財産と命全部取られてたでしょ
前田利長と島津のやり方も間違ってなかった >>134
前田利長と福島正則と加藤清正と
黒田長政の父親みたいな存在の
前田利家が死んでから
家康はクーデター起こしてるよね 島津はうまくやったよなあ
まあ家康としても辺境の九州を譜代や直轄にするメリットがなかった
というのもありそうだが >>138
島津も毛利も利長も采配はokだったじゃねえの?
家康と本気で戦ってたら
負けた後すべて失ってたよ
ああいう采配したから幕末でリベンジできた >>136
別に明治維新は毛利のリベンジじゃないでしょ
長州倒幕派な桂あたりは毛利家背負って動いてたわけじゃないし 1日で終わるとは思わんなわな
まあ、大軍同士の睨み合い
最低でも3ヶ月はかかると考えるのが普通では
小牧・長久手の戦いが約9か月 秀頼を担げんかった時点で西軍に勝ち目はなかったよ
秀頼に手出しさせなかった家康の戦略的勝利 たった1日で7万〜10万の大軍が壊滅って
ちょっと想像できないでしょ
ミサイルのある時代じゃなくて
槍が主力の時代で >>136
輝元は恵瓊に乗せられたアホだよ。めっちゃ小さくなったとはいえ領土を維持できたbのは
すべて吉川のおかげだからw 輝元は何もしてないよ そもそも秀次粛清で終わっていたんだよ、豊臣家は。
秀次付きの殺された子飼い大名だけで数十万石。
連座処分逃れた与力、親秀次大名も皆家康の取りなしで処分逃れたもんだから、そりゃ皆家康につくわ。 台湾のドンキみたいな店でパイナップルケーキを買って帰ろうとしたら台湾の友人が『そんな恥ずかしいものを国の外に持ち出すな』と必死に止めてきた話
http://dsse.mediakraken.org/GtmS/972955682.html >>145
輝元が大博打しなかったから
幕末まで毛利家は存続できたんだよ
石山銀山は取られたけど
元就は輝元の事へたれって評価してたけどな >>150
大坂城に入った時点で大博打してるし、そして負けてるしw
吉川に尻ぬぐいしてもらっただけでしょ。 >>142
輝元じゃなくて元就だったら騙してでも秀頼を連れ出してそう
しかし、秀頼は最後まで情けなかったな
大阪の陣でも一度も戦場に出ず
土蔵で死亡って
太閤の子なら一度でも千成瓢箪と共に登場しろよって >>151
あほ 輝元が大阪城から
出て関ケ原に行って
負けてたら
大変なことになったぞ >>151
大博打してないわ
秀頼担いで
大阪城から出て
関ケ原で大負けしたら
もう滅亡してただろうに
ちゃんとリスクヘッジしてるわ >>152
無理やろ実戦経験皆無だし
恐らく現代のボンボンと精神力も肉体力もほぼ変わらんぞ >>155
別に現代のボンボンだって旗印に担ぎ出されるくらいのことはできる 秀頼が博打打たんからその後の家康に豊臣がなぶり殺しされることになったんだな
マザコンだからしゃあないけど >>155
だから、形の上では家康も三成も秀頼の家臣。
つまり、家康vs.三成なら、家臣同士の闘いにすぎず、諸将はどっちに付こうが勝手。
しかし、秀頼が西軍に付けば家康は賊軍になる訳で、
毛利,島津なども戦っただろうし、小早川の裏切りもなかっただろうし、逆に福島の寝返りまで期待できたと言う話。 秀吉は堀秀政と蒲生氏郷の急死で仕方なく消去法で上杉景勝を会津に持って来たからな。
秀吉の天下取りを支えた織田配下の堀と蒲生、秀長が亡くなった時点で終わった。
例え秀次の切腹が無くても秀次では家康に対抗出来ない。
軍事面で家康に対抗出来たのは堀秀政と蒲生氏郷。内政で支えた秀長。 >>157
てか関ケ原のときには淀君はじめ大坂城の首脳部は家康を討てじゃないだろ
むしろ光成の挙兵と毛利の大坂城進駐を迷惑に思ってる
西軍×東軍を臣下の争いに思ってるわけで
秀頼出馬は無いわ >>159
いや秀次がしっかりと権威を継承していたら家康では対抗できないよ
イーブンな立場じゃないんだから >>161
秀次が継承したのは秀吉存命下でのお飾り権威であって、中身のある支配ではない。関白在任時に何をしたか見れば自明 >>159
秀次が正当後継者で、2代目として官位も貰った場合、
豊臣恩顧大名がどうするかだよなあ。
あと、最上とかも豊臣派でいるだろうし。 >>161
秀次失脚の騒動も輝元が噛んでる説があるんだよな
秀次から借りた金をチャラにしようと輝元が連判状を大袈裟に差し出したのが事の始まりって話 >>63
流れる水に文字を書く そんな無駄な一生さ 家康に秀次と戦う名分がない
反逆者になってしまう
それでは他の大名も家康に味方できない >>138
島津本国は関ヶ原に一切介入してないから、家康が責める口実が無い >>145
勝てる戦を負ける方向に持っていったのも吉川だろがw >>136
リベンジするような気はなかったらしいぞ
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%95%B7%E5%B7%9E%E8%97%A9
長州藩では倒幕が国是であるとの噂があった。
巷説の一つに、新年拝賀の儀で家老が
「今年は倒幕の機はいかに」と藩主に伺いを立て、
藩主が「時期尚早」と答える習わしがあったとの俗話が知られる
…この俗話について、2000年当時の
毛利家当主・毛利元敬は「あれは俗説」と笑い >>123
毛利は120万石とされているが周防長門に減封された後きっちり測ったら
50万石強あって隣の安芸より多かったなどという事件もある
それに瀬戸内交易路利権なども加えると実際は200万石相当あると
更に宇喜多は豊臣家忠義一直線で家康と戦うとなれば確実に行動を
共にするので家康に対抗可能な国力はじゅうぶんある >>162
公家にはメチャクチャ人気があったらしいぞ。
勉強熱心で和歌の研究はかなりのレベルだったらしい。
豊臣家と朝廷の安定した関係は秀次のおかげと言っても過言ではないと思うぞ。
あと、長久手では部様に負けたが、あれは池田恒興が元凶であって、その後の紀州攻め等ではあの雑賀衆を含めたややこしい泉州&紀州勢を屈服させたからな。
無能ではないと思うぞ。 まあ追撃しても秀忠を抜けなかっただろ
陰湿で愚鈍な景勝だしw >>169
吉川は汚れ役を引き受けただけだよ。
毛利家全体が漁夫の利を狙っていたのは明らか。
本隊の輝元が大阪城から動かなかったのがその証拠。
関ケ原でも、毛利秀元の目の前の中山道を東軍が横切って配置につくのを黙って見逃したわけだからな。
毛利家の誤算だったのは、たった1日で家康が圧勝してしまったこと。 >>173
最上ごときにあれだけ苦戦をするわけだからね。
ただ、付かず離れず追撃していれば家康も関ケ原まで行けなかったのかも知れない。 >>15 無理だろ。北条にも勝てなかったし。
国力が。
>>62 たまたま >>174
おまえ一人でずっと同じ事何回もレスしてるな。
吉川の子孫か何かか?
何が汚れ役だよw
ただの裏切りだわ。 >>175
孤立無援の京極ごときに苦戦した西国無双さんもいるし、
城攻めってのは苦戦するもんだよ 勝頼も万の兵で寡兵の長篠城を囲んでも落とせずに破滅の道をまっしぐらだしな。 >>175
家康は上杉と佐竹の出方がわからなくて、
ギリギリまで江戸にいて、
あ、こいつらへたれてやがる、
と確証持ってから出馬してる。
つまり、
上杉が一部隊でも下野に進出していたら、
佐竹が江戸を狙う気を見せたら、
家康は動けないし、徳川本隊つまり秀忠も動けなかったろうね。 それを思えば、最重要拠点の岐阜城が
籠城もしないで野戦に挑み1日で落城してしまったのには
西軍の諸将もビビったやろな。マジで。 >>181
岐阜城が籠城に向いてないのは、
城主ならわかってたはず。 そもそも論で言えば本気で日本統一しようとしたのは
織田信長ただ一人
上杉景勝が大局読めない田舎大名ってわけじゃなくて
信長が特別なんだよ 本郷さんはこのスレッドを何度も読み返していると思う 吉川はただのクズ
保険かけたつもりで本家だまして上手く裏取引したつもりが、家康にバカ扱いされて
いいようにあしらわれ本家が存亡の危機に
そこまでクズ扱い受けながらもちろん不平唱えるなんて身分不相応、必死で泣き入れて
まだ政権固まっていず揉め事起こしたくない家康が、じゃあまあごっそり領地削ることで
終わりにしてやるという悲惨な結果に
身内に吉川みたいなクズがいるとこんな酷い目に遭うという好例 >>167
家康は一応島津征伐の命令は下してるぞ
一連の流れは
立花宗茂が柳川に戻り籠城して徹底抗戦の構えだったのを
清正が島津征伐の先鋒を務めることを条件に立花を開城降伏させ
立花・加藤・黒田・鍋島で薩摩国境まで迫りさあ薩摩へ進攻ってところで
慶長5年11月12日付黒田如水宛徳川家康書状で
「これから寒気が強まる季節だから、年内は(薩摩へ)軍勢を動かさないように」
と家康の進軍停止命令が届く
潰すつもりが途中で気が変わり取り止めたのか、最初から潰す気は毛頭無かったのかは一次史料にないから家康の真意は分からんけど >>178 1週間で陥落だぞ。鳥取とか三木とか年単位だよな。 >>171
関ケ原時の動員兵力では毛利6万
家康3万+徳川直臣1万2千+秀忠1万5千=5万7千
で毛利の方がやや多いくらいだな
まあ同数だったら多分、家康の方が強いんだろうけど
勝ち目はあるだろうな 三方ヶ原の戦いで武田信玄の軍に破れ命からがら逃げ出した家康である
その時 恐怖の余り家康は馬上でウンコを漏らしてしまう
浜松城に帰ってきたとき鞍についたウンコを家臣の大久保忠世に発見されてしまった
忠世「殿 w やってしまいましたなwww」
家康「えぇい これは焼き味噌じゃあ!」
これが有名な「家康焼き味噌事件」だが近年の研究でこれは史実に反するということが分かってきた
家康は漏らしていなかったのだ 柴田に滅ぼされる寸前の所から信雄・羽柴方に付いて生き延び
その後も微妙な情勢を読んで豊臣方についていき、元敵方ながら加増を受けつつ五大老まで行ったんだから大局観がない訳ではない
記事では、東軍の背後を突く圧倒的優位性を語っているけど
それを言うなら、追撃する上杉軍の背後を最上が突いたら、上杉も圧倒的劣勢に立たされるだろうに
自領だから残存する兵や城で食い止められる?と言うなら、徳川も関東北東部は自領だし >>188
三木や鳥取は毛利の支援有りじゃん
孤立無援の大津城相手に1万5000も率いていって1週間はかかりすぎ >>192 高天神とかも相当かかった。
いや、普通の武将じゃ陥落できないだろ。
小野木も、もたもたしてたでしょ。 >>180
一般には福島らだけで岐阜城を陥としてしまったのを見て、
徳川の関与しないところでケリを付けられてしまうのを危惧して慌てて駆け付けた、と言うことになっている。
上杉や佐竹が動いた場合でも、史実より派遣する部隊を減らすことはあるかもしれないがまとまった部隊を送ることは確実で、
例えば美濃に家康、関東に秀忠と配分すれば史実の関ヶ原と戦力は同じになる。 そもそもの話、上杉が動かないのは直江状以来数か月にも渡って続いているわけで、
8月末になって「『あ、こいつらへたれてやがる』と確証を持つ」何かが起きたわけじゃない。
問題は徳川の大軍が西方へ進発したという出来事をトリガーにしてそれが変化するかどうか。
うがった見方をすれば秀忠の軍は信濃を攻めつつも、いざという時には東へ戻ることを想定して動いていたと考えることもできる。
その後家康が美濃へ向かうよう指示を送ったのは上杉が最上攻めを開始して最早警戒が不要になったため、と考えれば、
秀忠・秀康の戦力で対上杉は十分と考えていたと考えることができる。 まあ最上領への侵攻が実際に始まったのは9月8日だから、
事前に察知していたのでないと、この動きを見てからの指令と考えるのではタイミングが早過ぎか >>82
淀殿は「石田や大谷が不穏な動きしているから、早く上方に戻っておくれ」って徳川に手紙送ってるくらいだから、
西軍に協力する気なんてまるでないもんな。
淀殿は秀吉の遺言である「家康に秀頼成人するまでは政務を任せる」ってのを信じてたようだから、
石田たちの家康打倒の企てなんて豊臣家に対する反逆としか思ってなかっただろ。 >>172
三好信吉の尽力で秀吉が官位をもらってその後の関白まで上り詰めたっていうのなら、その説明でも構わないが、実際のところは三好の当主を継がせ、後に関白継がせるための教育で多少歌くらい読めた程度のことだろ。秀吉存命下の朝廷なので、公家が取り入らない訳があるまい。
あと、紀州攻め等はどうみても羽柴秀長に作ってもらった戦勲だよね。
非業の死を遂げたからって判官贔屓が過ぎるな。 >>178
そもそも敵が苦戦する様に作ってるのが城なんでね
基本的なことわかってないやつ大杉
長篠とかたった500人の城を武田本軍1万あまりが落とせないから戦いになったわけで
城攻めに大軍が釘付けになるとか当たり前
だから取捨選択が必要になってくる
それができるのは総大将クラスの人間だけなんだよ
輝元にその能力ありましたか?という話になる
残念ながら三成はそんな権限ある格の武将じゃない >>191
景勝は滅亡必至みたいな大ピンチを3度も迎えたのに天寿を全うした稀有の武将だよ
大局感なしにそんなことできるほど甘い時代じゃない 最近は異説をあたかも真説のように話すやつが多くてだめ。 >>200 運が良かった。本能寺の変が無かったら滅亡でしょ。
魚津城の合戦も撃退できなかったし。 >>175
相手は最上義光という名将だから簡単には勝てんだろ。 >>202
本能寺は運だね
しかし御館と関ヶ原は実力
3度全部運で乗り切れる程戦国は甘くない
そして運に恵まれてない奴が生き残れる程戦国は甘くない
過酷な時代なんよ 関ヶ原の合戦する前までに色んな分岐点あったよな
家康が本陣に布陣する前の移動時にも毛利本家軍が吉川の制止無視して家康に突撃してたら
石田と挟み撃ちにでき勝算あったし >>204 御館は武田が北条を裏切ったからでしょ。
あれで武田の滅亡は確定。
関ヶ原も駄目じゃん。そもそも、上杉謙信、景勝は過大評価。 上杉景勝…上杉を事実上滅ぼした愚かな君主として日本史上に名を残す。決断力0
直江兼続…大河ドラマと異なり鬼畜家老。重税と過酷な取り立てで百姓の逃散、一揆を招く
伊達政宗…野心家だったが駆け引きと落としどころを心得ていた
片倉小十郎…政宗の恋人、名参謀として支え抜き仙台藩繁栄の基礎を固める
この対照的な二組はよく比較の例に出される >>206
武田が勝手に北条を裏切ったわけじゃない
景勝が武田に交渉持ちかけて切り崩したんだよ >>208 交渉に乗る武田の先見の明がなかっただけ。
日本人の不思議なの所は武田信玄と上杉謙信のことが異常に好きなところ。
ちょっと調べるととんでもない野郎だと思うけどなあ。 >>209
要は勝頼を騙し落としたから景勝は生き延びたのよ
何もしなかったら武田と北条に潰されてました
勝頼がバカかどうかはまた別の話でしょ あの当時の兵站を考えたら上杉に徳川の背後突けと言われても無理。加えて周辺に伊達や最上掘がおりそれらへの抑えの兵力必要になるから動員(浪人含めて四万人)できるのは半分の二万なのでこれでは結城秀康守る宇都宮城抜けない。 >>210 相手が勝頼だから通じたんじゃないの。
だから運が良いって話。
上杉憲政がまさかの北条よりだったのがなあ〜 >>211
宇都宮抜くならまず背後の最上を潰し次に横の越後を併呑する必要があるね
いずれにしろ最上攻めは景勝の立場なら合理的選択だよ
景勝の決断が不合理なら伊達は最上を助けに動いてる
実際は伊達は最上に加担しない動きをしている
助けるにはリスクがあると判断したからだ 武田は愚策と分かっていたが、金が欲しかった。戦いが「近代戦」になり金かかるし、そのための自慢の金山が枯渇して金足りない。加えて武田信玄は金をうまく使って家来の人心収攬やっていたがそれらが機能せず、ツケが勝頼に一気にきた 景勝側は謙信死んだあと、旗本の栃尾衆や景勝派の武将と共に春日山城の本丸を制圧。そこに大量の金と武器がありそれが景勝側には御館の乱では役立った。 >>215
戦は金だからな
謙信が強かったのも青苧の交易など金儲けが上手くて莫大な軍資金を持っていたからだからね まぁ金があってもどうにもならん武田の子倅みたいな例もあるけどね 景勝の場合はなぜか人望あった。滅多に笑わない威厳ある雰囲気からのためか。
関ヶ原のときも徳川側の武将に上杉贔屓が沢山いた。家康の倅結城秀康や家康の家臣団も武闘派、本多正信と言った側近含めて上杉に甘かった。
家康本人と訪ねてきた景勝を出迎え頭を下げるくらいに。ちなみに家康が景勝に丁寧だったのは大御所になった晩年まで続く。 >>216
謙信の親父の代から金儲けうまく、その金を利用して上杉親子は自身の権威付けをやってる。
親父の為景は金使って朝廷から「錦の御旗」と「治罰綸旨」もらったり、幕府から毛氈鞍の特権得たり。謙信は関東管領を幕府に認めさせた上に関東攻めの公認や輿に乗る特権とかもらってる >>218
まー、関東管領だからな、上杉姓は。
諸将が一目置く家格があったんじゃね? >>212
景虎(北条の養子)推しとけば、その仲介で関東に復帰できるという目論あったんだろ?喜連川家みたいな待遇得られるならって。 >>220
関東管領だと家格は武田や北条より上になるのは間違いない。官位はたいしたことないが関東公方の執事であり将軍にお目見えでき関東公方の代理人として振る舞えるから。
武田や北条はそれ分かってるから「長尾」といって絶対に上杉と認めなかった。武田のほうは庶民さえ江戸時代まで「長尾」と言っていたなんて記録ある。 北条でさえ関東公方滅ぼさず、喜連川家とか
傀儡にして祭り上げていた。それくらい家格がモノをいう時代だった。喜連川家は徳川幕府でさえ「客人」として家来扱いしなかった。 >>224
いや、輝元がしっかりしてりゃ済む話だろw >>225
輝元は無能すぎ
広家はクズすぎる
輝元は自ら関ケ原行きなさいや >>114
人気になったはパチンコじゃねー
マンガで人気になってパチンコは物語の内容は関係なく波が荒いから売れただけ
そのマンガで景勝とか直江兼続とかアホみたいに有能美化されてるから
直江兼続なんて史実だと無能の極み お家騒動により天下取りレースを離脱した時点でその程度だったって事 >>226
その広家のおかげで毛利は幕末まで残れた。
>>225
当主が馬鹿すぎるからと、黒田官兵衛が秀吉の馬鹿甥秀秋を毛利の養子にしようと画策。黒田の嫌がらせと気づいた小早川隆景が「子供いないからうちの養子にもらうわ」と生け贄に。 >>229
上杉謙信が手取川で織田破りそのまま畿内に出てこなかった時点でチャンス無くなった。越前まで進撃してきたのに。せめて柴田勝家敗死させ越前だけでもゲットしとけばよかった >>44
元就の天下狙うなの教えが悪い方に働いた可能性もある
のらりくらりで地方の大領主が許されない時代になってしまい、元就の考え方が古くなった
野心持って暴走してれば勝ち戦になった可能性もある >>232
輝元も自分で考えないとね
元就が輝元の立場ならあんな醜態晒さない
生き残るのに必要なら天下狙っただろうよ
一国衆が当時の大内と尼子滅ぼしてんだから
あれも生き残り模索してたらああなったんだろ >>228
藤原惺窩は直江を「あれは奸臣だ。必ずや主家を危機に陥れるであろう」と評したんだよな
果たして直江は関ヶ原でしくじって主家を減封に追い込んだ >>155
おぼろげながらポエム詠ってもいいですかね? >>152
太閤の子だから公家として養育されちゃったんだろ
更に淀殿ママンが付きっきりじゃあ誰も厳しくできない
面倒くさい三河家臣団みたいなのがいれば2〜3人腹切ってでも厳しくしたかも知れないけど >>239
小早川秀秋だって戦国武将と言うよりはお生まれついてのお公家さんだよね
武門のどちらにつくか寝返るかなんて判断を本人に求めるのは無理がある 仮に江戸時代が無くなればと考えるとワクワクするな。
1700年頃イギリススペインに攻め込まれ見事撃退、その後軍備を整え現在まで世界トップクラスの大国を維持している。 >>241
そのころだとスペイン落ち目だろ
英蘭戦争終わったあたりだし 毛利家の子供ってみんな元就から
評価されてなくて
絶対領土拡大するなって言われてたよね >>237
福島正則と加藤清正は
関ヶ原の後
東軍に付いたことを後悔してたらしいね
家康は福島と加藤を関ケ原の戦いの後
用無しで冷遇したとか 吉川広家だけが東軍に内通してたみたいに言われるけど重臣の益田元祥、熊谷元直、宍戸元続も内通してたんだよな
関ヶ原合戦のちょうど二ヶ月前に4人連署の起請文(神仏への誓いを記した文書)が残ってる
慶長5年7月15日付益田元祥・熊谷元直・宍戸元次・吉川広家連署起請文
この度東(家康方)へ心を通じる一件について、我々四人が相談して協力することにした。しかしこれはあくまで輝元様の御為と存じ、このように覚悟した以上は、
万一この件について御当家の差し障りになるような事があれば、この四人が責任を負うことにして、御家に迷惑が掛からないようにしなければならない。
この件は一切他言無用で、この度(輝元の)留守中四人は心を合わせて、輝元様の御為となるよう配慮して、身を捨て力を尽くすことにする。
もしこの誓いに偽りがあれば、日本国中の大小神々、特に厳島大明神・摩利支尊天・天満大自在天神の罰を受けるものとする。 >>237
自分たちが追放した三成が返り咲きを果たしたら
報復で領地どころか自分や家族の命まで危うくなってしまう
三成が西軍の前面に出ている以上は、福島には東軍として三成征伐以外に選択肢がない
福島の対応は馬鹿でも何でもなく、一番の馬鹿は三成を悪目立ちさせている西軍の対応だろう >>246
輝元が直接内通してたとする史料は全くないぞ
全て吉川広家が動いて家康方とやり取りしてる
単に大坂城から動かなかったからとかじゃなく直接輝元が家康と通じてたという史料を持ってこい >>212
それを言ってしまうと、しばらく地方で愚かな殺し合いが続きましたで全部終わる話で戦国武将個人のこと考察する意味なくなるやん 家康を挟み撃ちにできるチャンスは何度かあったと思うの、
なんで景勝はそれを捨て続けたの? >>250
それしたら
背後を最上とかに
襲われるリスクがあるから >>231
手取り川も実際どの程度な戦果かわからんが >>241
西欧と敵対してどうやって産業革命するんですかね >>250
この状況で家康追えないでしょうも
最上も伊達も堀も関ヶ原前から因縁ある敵だしさ
https://i.imgur.com/d53MbYh.jpg 景勝は関ヶ原の戦いの時4万の兵持ってて 家康の背後3万ぐらいの
兵で襲えなかったのかね?
残りの1万の兵隊で伊達と最上を食い止めて
守れなかったのかな? >>255
そもそも4万の兵なんて持っていないからできないという
単純な事実からなぜ目を背けるのかな? >>48
毛利も毛利で信用してなかったぽいしね
豊臣に近くて黒田官兵衛とも親友だった小早川隆景も
黒田殿が豊臣の人間だと言うことは忘れないように。心の底から信用したら彼の事だから簡単に寝首取られて毛利は滅ぶぞ
とか生前輝元や家臣達に口酸っぱく言ってたらしいし >>250
伊達最上が背後にいるから簡単には関東に攻め込めない
当然挟み撃ちするなら中央にいる石田三成らと連絡しながら事を進めなくてはならないが、
7月30日付で三成が真田昌幸に宛てた書状で三成は使者を沼田経由で会津の上杉に派遣するよう依頼してる
しかもこの書状の宛名には既に東軍についていた信幸が含まれてる。つまり三成はこの時点で信幸が東軍についたことを知らなかった
沼田は信幸が治める領地で沼田経由で三成の使者を通せるわけがない
8月25日の上杉景勝が輝元や三成等に宛てた書状で景勝は
「伊達・最上が不穏な動きを見せているので、それに対処し終わってから関東に攻め込む」と言ってる
しかもこの書状が真田信幸の手元にあり現在まで伝わってきたということは、三成等の元にこの書状が届かなかったことを意味する
上杉と三成の間で使者の往来ができず情報封鎖され、上杉も背後に最上伊達がいて簡単に関東には攻め込めないとなれば挟み撃ちなんて到底無理だな 秀吉は宇喜多の直家とは
ウマが合ったみたいだな。
信長は直家を毛嫌いしてたみたいだが。 つかこのまま上杉が引きつけて戦っていて三成がその後挙兵して挟み撃ちにしてたら、ちょっとわからなかったかもな
黒田孝高も挙兵しても福岡じゃすぐに合流できないだろうし、第三勢力の可能性もあって様子見で戦って勝った相手潰してたかもしれない >>254
粗雑な図だな。
岩城なんかの親佐竹をバッサリ抜かしているし。 >>254
佐竹と相馬は日和見
徳川と上杉の間は結城秀康
これも抑えに置かれてる状況でどう攻めろと 上杉家は100万石クラスの大大名ではあるが
周辺が魑魅魍魎だったからな。
まぁ秀吉存命ならまったく問題はないけど
有事になると苦労する。 上杉が本気で関東攻めする気あるかは謎だけど前提は最上滅ぼして庄内飛び地状態を解消すること
この状態で伊達への備えに2万は要るとして遠征軍は2万
2万じゃ宇都宮落とすには足りないねー
秀康が野戦してくれたら別だがそんなことしてくれるわけないからな
だから関東乱入は基本的にない。
佐竹だって動かせるのせいぜい1万だからねー。 上杉 120万石 約36000人
伊達 58万石 約18000人
最上 24万石 約7000人
家康を追撃するにしても関東遠征するにしても
自領の守備の為には
25000〜30000人は残さないと心許ない。
6000人〜1万人で南進できるか。
できるわけがない。
中途半端に半分を残置守備
半分を南進に充てたら、共倒れ→滅亡
の可能性が出てくる。 この時点では、豊臣配下同士の内紛みたいな印象はあったでしょう
本格的な参戦に二の足を踏むのは分からんでもない気がする
将来的に徳川が豊臣を潰す感じになるのが分かってたら、西につく大名はもっと多かったでしょう >>265
最上滅ぼしたら山形に一万、福島に一万というふうに効率的に伊達への守りを置くことができる
こうなると頑張れば遠征軍2万近くはひねり出せる
ただし2万じゃ全然足りないから頑張らないと思うけどw 西軍とか東軍とかいう目で関が原を観てる人は最初から間違ってるんだよね
参加者全員が自分たちの利益のことしか考えてない
マルチプレイヤーゲームなんだよ
刻一刻と状況は変わり、常に各人が状況判断をしながら動いてたのが関ヶ原 むしろ毛利輝元が秀頼を拉致してでも関ケ原に向かうべきだった
家康させ戦場で倒せば淀君など無視しても良いし幼い秀頼が道中で
病死しても構わない >>265
まあ防御専念なら相手より戦力少なくてもしのげるから
そんなに残す必要はないよ
最上と伊達が同時に侵攻してくるケースを想定しても一万数千くらい残せばいい
南進に2万は割ける
はっきり言ってそれでは足りないけど
ただ、南進もどこまで本気度が高いかによって出せる兵力も違ってきそう
兵站の負担もあるし、まかり間違って本国が危機に陥った場合に兵を戻す可能性を考えると
浅く攻める分には過半を割くこともできるけれども江戸まで進撃することを考えた場合には厳しいかもしれない 徳川を倒せれば会津を失っても結果オーライとか言ってる奴は馬鹿かよ
ギャンブルで全賭けしてスッカラカンになるタイプだろ >>273
後先考えずに全賭けは男のロマンだけどな 2万だと謙信が毎年やってたような北関東掠奪ツアーくらいしかできない
逆に言えばそれくらいはできるからかなり儲けることは出来る 吉川の判断は本当に正しかったのかというね
あわや本家毛利は潰されそうになって、その為に奔走しなければならなかったし
小早川家は結局お取り潰しの浮く目にあったしな >>260
三成挙兵を遅らせると成り行き上西軍になった組が東へ行ってしまった後にならないか >>104
橋下徹が「野党が合併して強くなれ!」と檄を飛ばしても、
枝野や志位らがやる気なくて自民に負けまくっているのに似ているね 吉川結局騙されてるわけだから正しいはずないでしょw
甘いんだよ最初から
最低でも火事場泥棒した領地の確保くらいはできると甘い甘い前提で裏交渉してたんだろ
そら家康は甘いこと言うに決まってる
天下取れなきゃ家康は破滅だが天下取ったらそんなクソ約束守る必要ねーんだからw 輝元は七将三成襲撃事件の後始末の時に一度家康に屈服して舎弟みたいな立場になったのに、
今度は関ヶ原みたいな大事引き起こして、家康が自分に対して何も処分無しだと思ってたのかね・・・。
家康とは兄弟だから大丈夫だと踏んで大坂城開け渡したのかね。もしそうだったらあまりにもお花畑脳だけど。 >>255
上杉で4万動員できたなら伊達と最上で3万は出てくる
更に越後方面空ければ堀とか喜んで出てくるだろ ぶっちゃけるとさ、
上杉が数万の軍勢で徳川を後背から襲うなんて不可能なんだけどね
そんな大軍を長距離行軍させて軍事活動を行うノウハウなんか上杉にはない
もっと小さな単位でしか扱えんのよ
だから近場の城を襲うしかなかったわけ
大量動員、大規模行軍のノウハウを日本で当時持ってたのは
豊臣と徳川のみ >>278
まあ確かに遅すぎたら上杉討伐隊になってたろうしなぁ
やっぱり難しい戦局だわ >>282
輝元はどう転んでもいいようにしすぎ
競馬に例えると本命筋の馬券いろいろ買い過ぎて当たっても収支マイナスになるタイプ やっぱり上杉最上伊達佐竹が連合するくらいじゃないと何も出来ないよ
伊達政宗がもう少し野心の無いポンコツなら上杉主導で連合組めたかもな >>266
家康の最大の戦功はそれだよね
西軍そうだいしょうにまでそう信じさせた >>289
実際のところ、この時点では家康にも豊臣滅ぼす気まではなかったんじゃないのかね
関ヶ原から冬の陣までの10年の間、むしろめんどくさい行動してきてたのは大抵豊臣方の印象が ぶっちゃけ淀がいなけりゃ織田有楽斎とか信雄みたいな立ち位置で秀頼も生き残れたと思う 上杉の領地をもっと詳しく見ていくべきだと思うよ
会津から遠くて守れないような所は敵対大名にあっさり接収される
佐渡14万石、庄内14万石、伊達に落とされた白石を外すと
実質的に伊達58万石、最上24万石と同程度くらい
転封されたばかりという状況を考えると最上、伊達でも対等かやや負け
せめて最上潰して庄内と繋げた上でないと南進は無理
基本的に上杉包囲網の形だからね >>277
毛利一門総崩れだな
覚悟もなく徳川と戦おうというのが間違ってる
ここで家康を倒さなければ滅ぼされる覚悟でことを起こさにゃ >>282
関ヶ原合戦から5日後の9月20日に近衛前久が息子信尹に宛てた書状では
「吉川広家は家康と交渉し、領地は全てそのままと言う条件で家康の味方になるとの扱いだったが、
それは表向きの発表で、実際には領土半減の条件で家康に降参したそうだ」
とあるから減封は既定路線で話がまとまってたんだろう
合戦前日の9月14日吉川広家と福原広俊に宛てた井伊直政・本多忠勝の連署起請文があるけど
「毛利の御分国(領地)は(安堵されることは)申すに及ばず、これらが相違することは決してない」
とあるがこれが近衛が言う表向きの発表だったってことだな >>287
元就とかあんな慎重な男が勝負する時はするからね
どっちへ転んでもなんて姿勢は身の破滅のもと
決めたらそちらの方向に鬼畜のように邁進しなくちゃダメ 元就の謀略は命懸けの賭けに何としても勝ち残るための必死な手なんだよ
保険かけるなんて甘っちょろいことに謀略や交渉は使うもんじゃない
相手も命懸けなんだから >>272
本国攻められてホイホイ遠征なんてできねーよ
大名や側近がやる気でも土着の配下や兵士がついていかない
最低限の城を守る兵だけじゃ本体が遠征して離れてる間は援軍来ないんだから城の包囲して残りは国中略奪し放題
城は残っても領地や自分の村は壊滅する事わかってて離れるわけねーだろ
帰る家が無くなって家族が皆殺しにされるかも知れない状態で戦闘する兵士の士気が上がるか >>240
秀秋は、豊臣御一門だけど、ねねの親戚筋で、
秀頼後継者確定のために、他家に養子に出された微妙な立ち位置だからな。
淀派ではないよなあ、たぶん。 >>280
それなら一か八か関ヶ原で後ろから襲ってやればよかったのに >>290
滅ぼすまでは行かなくても、とって替わるつもり満々なのは関ヶ原以降あったからなぁ
まぁこの時点ではまだかもしれんが、関ヶ原を受けて早い段階でそうなってるのでは >>299
その後江戸幕府開いた時点で豊臣なんて邪魔者以外の何物でもないよな >>299
そりゃ関ヶ原で邪魔者一掃味方がわんさと増えた状況で野心持つなというのが無理
その時点で我慢できなくなってるやろ >>288
政宗がポンコツなら最上の配下か、その前に滅びてるよ
東北の複雑怪奇な血縁だらけの豪族の中で大大名と言われるまで勢力伸ばせたのは優秀だから >>279
石田三成が志位ポジションだった気がする。
三成がいる連立なんかに参加出来るか!って感じ。
(個人的には三成は好きよ) >>160
それは表向きで家康の勝手気ままなそれまでの行為も迷惑に思ってたろうな >>303
志位にはそんなに人望ないよ
関ヶ原は地政的になりゆきで西軍になった大名もいたけど、志位ならその場で玉砕しても拒否されるだろ まあ、前田家のアクロバティック土下座の後で何やってんだとは思うけどな
回りが家康派ばっかなのに何で戦って勝てると思ったんだか
大局の前に目の前の有利不利すら分かってないポンコツ 逆に言うと、淀も輝元もどっちが勝ってもいいように保険かけてる絶望的な状態で
「秀秋がとち狂ったら家康も危なかった」みたいな状況までもってけたのはズゲェわ >>287
何より証拠隠蔽がお粗末
四国出兵に関してもあっさり証拠見つかったせいで言い逃れ出来なくなった
政宗も謀略あっさり露見してお粗末なところあったけど岩崎一揆失敗後和賀消したりとバレた時の言い逃れ作りに関しては徹底してたw 秀吉が出兵するから
祟りが400年以上も続いている >>309
まあ一言でいうなら
アホかwwww
だな >>309
四国出兵バレてお咎めされるならその戦力を関ヶ原に回さんかいどアホってやつなw どちらかというと
前田利家と蒲生氏郷が存命だったら家康はあんな思いきったことはできなかったというか
徳川方についた秀吉子飼いの武将の多くが家康でなく利家氏郷側になっていただろうなたぶん 景勝に関しては議論の余地がたくさんあるが輝元に関してはない
おまけに輝元は懲りずに大坂の陣でもやらかしてる
命令されたやつ可哀想の極み
輝元はほんとクズエピソードばかりでゲンナリする >>241
太閤検地(1598)から明治5年(1873)の間の石高の伸び
五畿内 114.0%
関八州 165.6%
戦国時代で近畿の開発は限界に近かった
関東地方の方が未開発な分、伸び代があったんだよ
豊臣政権か毛利幕府で大阪が首都だったら
むしろ江戸時代ほど国力は伸びなかったろう 景勝は軍勢を差し向けられる前に何か手を打つべきだった
石田三成の挙兵だけではないが
東北に徳川シンパを引きつけることになにか勝算があったのだろうな >>316
伊達の仙台平野や庄内や越後も加えるべきだな
いずれも灌漑技術の発展で大河をコントロールできるようになったのでそれまで稲作に使えなかった川沿いの平地が稲作につかえるようになって一気に大穀倉地帯になった >>318
徳川幕府で関東地方の人口が増大したおかげで
東北の米の需要が増した…と考えると
東北も豊臣政権や毛利幕府では発展しなかったろうな >>319
伊達の米は江戸の街食わすための米だからね
当時の技術だと畿内は遠すぎる 前田みたいな何の実績も無い役立たずのヘタレに大封与えた馬鹿猿のせい 景勝には越後と北信と会津と上野を統治させるくらい巨大化させとかなきゃ
家康に対抗できる戦力にはならないでしょ
猿は領土配分のバランスが悪すぎ >>302
伊達は元から東北の大大名だし、最上は弱小大名だからそこから大大名になった最上義光の方が遥かにすごくね。 >>314
佐野道可事件は近年の研究だと史料の再検討が進んで、輝元が事件に関与してる根拠になってる輝元が道可に与えたという起請文(『萩藩閥閲録』巻28内藤孫左衛門文書)
が後世の創作の可能性があり道可の大坂入城と輝元は無関係だって説もあるけどね 豊臣の棚ぼた短期政権なんか日本の黒歴史だからね
あの時代は信長と家康の二傑で完結している
悪政で国内はおろか自分の家まで疲弊させて、あげくの果てにボケて諸大名の前でおもらしする猿は信長や家康の足下にも及ばない 秀吉にしてみたら
前田を置いて上杉が動きやすくしたつもりだったんだろうけど
前田の息子がヘタレだったから
上杉も動けなくなったんだな
前田と加藤福島のバカっぷりは計算できてなかった 家康には優秀な参謀やスタッフが沢山居たから天下泰平の礎を築けたけど
猿の藤吉郎にはいなかった(自身も無能)
それだけの話 >>313
確かに勢力的には別れそう
ただ、蒲生にしろ前田にしろ福島正則や加藤清正の様に秀頼の為に尽くすかつと言えば疑問
蒲生も前田も元々秀吉の同僚であって臣下ではない
毛利も本能寺までは同等の立場は信長であって秀吉は信長の臣下
秀吉が生きていれば義理もあるし秀吉の実力には従うだろうけど、秀頼や淀をどう思うか?
主家を織田と考えれば豊臣は簒奪者
徳川幕府の代わりに蒲生幕府とかになって結局豊臣は滅ぶんじゃないか? >>327
秀吉は前田なんて信用してないと思うよ
柴田を裏切って自分についた人間だからねw
ただ気づいたら身内に頼りになる奴が全く居なくなったんで仕方なく利家を頼らざるを得なかった 大坂の陣で、千姫からの秀頼助命嘆願について
将軍さまに分別を任せると言って
秀忠には秀頼は高野山でも良いんじゃないか
などと言い、
全盛期ならありえない明らかに消極的な態度だった。
自らも高齢で死期が迫るなか、必死に哀願する在りし日の秀吉の姿が
目に浮かんだのだろうか。
それとも旧主家の豊臣討伐の悪名を避けるための
演技だったのだろうか。 >>327
利家も無能だけどね
デカイ領地もらっても
大軍率いたこともなければ方面軍統括したことすらない、コウモリみたいなことしてただけの単なる与力だよ
家康みたいな歴戦の大大名からしたら赤子も同然
大統領と町内会長くらいの実力差がある 堀秀政と豊臣秀長と蒲生氏郷が早死にしたからね。
徳川四天王と本多正信が早死にしたレベルに匹敵する。 >>332
仕方ないよ
秀吉と同等の能力ある信長の子分はみんな秀吉のライバルだから潰されちゃった
信長の旧臣で生き残ってるのは秀吉達よりワンランク下の連中以下だからね >>332
家康もたいしたことない
信長がいなければ即死してたよ
信長のおかげででかい領地もらって強くなっただけ
そして高台院を抱き込んで、秀吉子飼いのバカを使って邪魔な三成を成敗して
後はネチネチ豊臣家を追い込んで爆発させただけに過ぎない >>285
アホか
越後から何度も関東押しかけてる上杉にとって会津から江戸なんて散歩レベル
痛々しいから無知が無理すんな >>333
そうでもないよ
タラレバで人とああだこうだいうのは楽しいよ
リアルな事だけ言っていても人生つまらないじゃないか 利家はクズだよ。
賤ヶ岳のとき、落城する様子を眉をひそめて眺める利家に、秀吉が気遣いして話かけたら
勝家が城から逃走したかもしれない
とか失礼極まりないことを言い出して
秀吉が、そんな情けない武人ではない。と
発言を諌めたエピソードがあるからね。 400年以上も前のことを結果だけみて偉そうに上から論じる歴史家とかいう人たち。当時の些細なんてわからんのに。 >>336
信長からでかい領地なんて貰ってねーだろ
駿河なんて三河遠江足した三分の一しか石高ねーし
家康は無理ゲーをたまたま生き残って勝者になったタイプ >>323
伊達は東北の最大に近い大名ではあった
しかし、伊達植宗辺りから婚姻関係を築いて勢力を伸ばしたから見かけだけはそう見えるが、その婚姻関係で身動き取れなくなったのが当時の伊達
周りが親戚だらけで領土の拡大はできず、領主が人質に取られて息子に撃たれるなんて本物の大大名ならないよ
嫡男の正妻を田村から迎えてるんだからその程度だったんだよ
政宗は婚姻関係を無視してある意味王政の中央集権みたいな事をやったから大名自身が強力な力を得た
そこが政宗の優秀な所
もちろん最上義光も優秀な人 ゲームだと端から開始すると有利だけど
リアルだと天下獲りなんて120%無理だもんね。
というか畿内に近くないと無理。
家康を関東に移封した際は
秀吉も少なからずは
家康の所領を畿内から遠ざけられたという計算はあったはず。 伊達政宗とどっちかって言うと最上義光の方が高感度高いわ
謀略メインだったから、家臣があんまり死ななかったとか、その代わり個人的人気は無かったとか
働くなら最上義光が社長の会社が良いな >>341
信長がいなきゃ今川の部将だったのに信長のおかげで今川の旧領全部支配する大大名になれたんだから万々歳だろw >>336
姉川でも長篠でも主力として活躍してるだろ
三方ヶ原では糞死したけど膨大な経験値を得た
天正壬午の乱ではとして北条を完封してお家を強大化
小牧長久手ではそれまでに身に付けた実力をしっかり発揮して強い指導者として全国的な評価を得た
お家の存亡をかけた戦いを指導者として率いる経験が沢山あるのが家康
常に強者の尻に与力としてくっついてただけで、自分でお家の存亡を賭けた戦いは何もしていないのが利家 >>334
秀長はともかく堀と蒲生は旧織田家臣だから秀吉からしたら仮想敵でしょ。
旧織田家臣は前田利家以外は信用してなかったんじゃねえの? >>331
家康は天下の采配を奪いはしても豊家を潰すつもりはないで最初から最後まで徹底してると思う
ほんとにやる気なら秀忠の将軍就任のお祝いガン無視した時点でこれ以上ない大義名分があるわけだし
ドロドロに顔面に泥塗りたくられても我慢してる辺り穏当にフェードアウトして欲しかったんでしょ >>346
秀吉もそこは承知の上で利家を家康とともに優遇してたと思うけどな。
確かに器量的には利家はとても家康に対抗できる人間じゃないけど、豊臣恩顧大名達からの人望はあったから、
一応秀吉死後も利家存命時までは政権もギリギリバランス取れてたし。 >>347
だから前田利家信用するようなお人好しが天下取れねーってw
秀吉は生涯誰も信用してないよ
秀吉だけじゃなく当時の一流の武将の大半がそうだよ 秀吉自身が主家から天下を簒奪したわけで
そりゃ誰も信じてないでしょうな。
秀次のことも信じてなかったわけで。
大老や奉行に血判状や起請文を何度も出させたり
号泣嘆願する姿勢からも、
結局は誰一人信用してなかったと思う。
亡くなる直前に、燃えさかる未来の大坂城の光景が
頭に浮かんだかもしれないね。 そういえば昔、架空戦記ブームがあった時は
だいたい結城秀康が家康に反旗ひるがえすんだよなw真田昌幸も名軍師にされちゃったりなんかして
それぐらいしないと家康強すぎて輝元や三成じゃ勝てないもん >>349
「槍のマタザ」とあだ名あるようにザ脳筋みたいな経歴だけど、そろばん使って金の計算したりと割りと強かだぜ前田利家は。
脳筋と見せかけ裏ではしっかり工作やったりして百万石で五大老にまで上り詰めた。死ぬときも「大名に貸した証文これだけあるからこれ使って与党作れば家康に対抗できるぞ?」と息子に遺言してる。 >>353
行政能力ないと国持大名にはしてもらえんよね だいたい関ヶ原とか家康は本人きてるのに
輝元やる気ねーし、現場指揮が石田三成で兵集めてる時点でいろいろ負け確定な戦だわなぁ
西軍はやる気ねーし内部分裂あってよくあそこまで人集まったねってぐらいだよなw ハリボテだとしても・・・ スレざっと見る限り景勝よりも輝元のがボロクソ言われてんな
徳川攻めたら最上や伊達にガラ空きになった本国攻められると散々述べられてるけど実際にそのガラ空きになった敵国攻めを実行したのにあっさり撃退されたのが輝元だから当たり前かw 輝元は家康に負けたんじゃなくて
吉川ごときに抑えられてるから
笑われて当然 利家は本当にクズだよ。
家康との面会時に、まったく使う気もない小刀を
白々しく布団の下に忍ばせて、
家康が帰っていった後に利長を呼び寄せて
お前が器量なしだからこの小刀を使えなかったとか
むちゃくちゃなこと言って自己正当化したからね。
死に際、息子にすら体裁を整えようとする
生粋のええカッコしい。
基本的に卑屈だしズルいんだよ。 >>356
そもそも輝元は家康と全面対決なんてするつもりもなく
はじめから家康を上と認めてる
それを無理やり三成が周りを煽って人を集めて、輝元を総大将に祭り上げた
輝元も少しは屈辱を感じててそこを煽られたのかもな
でもその結果が毛利勢の内部分裂による関ヶ原の現場w 輝元は叔父たちから日常的に折檻されてるし
唐入りでは全体の半分近くの兵力を負担させられてるし
吉川だけではなく秀元からも軽く扱われてるし
現代で診察を受けたら、なんらかのメンタル系の病名がつくんじゃないかと
言われているからね。 >>234
天地人での聖人化は反吐が出るほど気持ち悪かったなw
真田丸みたいな腹黒軍師のがしっくりくる >>341
アホか
家康は、三河政権たる鎌倉幕府、室町幕府の継承者であり、武家の既得権益保護の守旧派である
つまり、徳川家康は倒される側であり、家康を倒して初めて下剋上が成立したわけだ
日本の歴史(中世〜近世)
◆鎌倉幕府(1185〜1333年)◆
【勝者】源頼朝:藤姓熱田大宮司一族(本貫地/三河国額田郡乙見)
・藤原季兼(別号:三河四郎大夫、三河国額田郡に居住)→藤原季範(別号:額田冠者、三河国額田郡に居住、初代藤姓熱田大宮宮司)→由良御前(源義朝の室)→源頼朝
◆室町幕府(1338〜1576年)◆
【勝者】足利尊氏:三河守護
・足利将軍家以外では、足利一門として吉良氏(本貫地/三河国幡豆郡吉良)、今川氏(本貫地/三河国碧海郡今川)、石橋氏(本貫地/三河国設楽郡石橋)が将軍継承権を有した
・守護職は本貫地を三河国にする者が最大人数
・奉公衆(江戸幕府の旗本に相当)は、本貫地を三河国にする者が最大人数、又三河国の奉公衆も最大人数
◆応仁の乱(1467〜1477年)◆
【勝者】細川政元:細川京兆家(本貫地/三河国額田郡細川)
・ ”東博本洛中洛外図”には当時の権力者として細川氏邸、額田氏邸(細川氏被官)が描かれている
◆明応の政変(1493年)◆
【勝者】細川政元:細川京兆家(本貫地/三河国額田郡細川)
・半将軍と呼ばれ、幕政を完全に掌握、事実上日本のトップに立つ
◆関ヶ原の戦い(1600年)◆
【勝者】徳川家康:本貫地/三河国加茂郡松平
◆江戸幕府(1603〜1868年)◆
【勝者】徳川家康:本貫地/三河国加茂郡松平
・大名の5割が三河国出身
・附家老の8割が三河国出身
・旗本の4割が三河国出身、高家筆頭は吉良氏(本貫地/三河国幡豆郡吉良)
◆大坂の役(1614〜1615年)◆
【勝者】徳川家康、徳川秀忠:本貫地/三河国加茂郡松平 徳川家康は室町幕府のラスボスであり、家康を倒して初めて室町幕府が崩壊した
家康は足利将軍家サイドの人間だと、何時になったら理解するんだ
三河政権たる室町幕府の支配層一覧(三河繋がり優遇)
■将軍御一家
【三代将軍足利義満時代】(3家)
・西条吉良氏(三河国幡豆郡吉良、三河県西尾市)
・今川氏(三河国幡豆郡今川、三河県西尾市)
・渋川氏(上野国群馬郡渋川)
【八代将軍足利義政時代】(4家)
・西条吉良氏(三河国幡豆郡吉良、三河県西尾市)
・東条吉良氏(三河国幡豆郡吉良、三河県西尾市)
・石橋氏(三河国設楽郡石橋、三河県新城市)
・渋川氏(上野国群馬郡渋川)
■三管領(将軍に次ぐ最高の役職、将軍を補佐して幕政を統括)
幕府執事(管領の前身)(3家)
・高氏(三河国額田郡菅生、三河県岡崎市)
・仁木氏(三河国額田郡仁木、三河県岡崎市)
・細川氏(三河国額田郡細川、三河県岡崎市)
管領(3家)
・細川氏(三河国額田郡細川、三河県岡崎市)
・斯波氏(三河国碧海郡矢作、三河県岡崎市)←初代足利家氏は、祖父より三河国碧海郡碧海荘を相伝し本拠とした
・畠山氏(武蔵国男衾郡畠山)←初代畠山義純は三河国生まれ
■七頭(管領家とともに幕政に参加できた七家)(7家)
・一色氏(三河国幡豆郡一色、三河県西尾市)(四職)
・山名氏(上野国多胡郡山名)(四職)←初代山名義範の実父は、矢田城主(三河国幡豆郡矢田、三河県西尾市)の矢田義清
・京極氏(山城国葛野郡京極)(四職)←京極高秀(佐々木道誉の嫡男)親子は三河国額田郡下和田郷(三河県岡崎市)の領主
・赤松氏(播磨国播磨郡赤松)(四職)←善住寺(三河県豊川市)に赤松円心親子の墓あり、赤松円心は一時、赤田和城(三河県岡崎市)に隠れ住む
・土岐氏(美濃国土岐郡)(五職)
・上杉氏(丹波郡何鹿郡上杉)(関東管領)←事実上の初代上杉頼重の屋敷あり(日名屋敷、三河県岡崎市)
・伊勢氏(出自不明)(政所執事)←活動を記録した最古の資料では、初代伊勢俊継は父、叔父、従兄弟と共に三河国額田郡賀茂郡(三河県岡崎市・豊田市)で活動 また戦国大河で主演松潤の家康やるみたいだけど
宇喜多直家、秀家親子の大河やってほしいわ。
直家の謀略成り上がりから
五大老秀家の敗北島流しエンドなんて
二世に渡るまさに戦国なドラマチックな生き様。
家康のドラマ化なんて手垢つきまくってるのに
またやるなんてね。 >>364
基本的に朝鮮出兵で活躍した武将はまともに大河されないんじゃない?w
宇喜多秀家とか大将だからな
あったとしても異次元ムーブする大河とかになる 徳川家康は、三河政権たる鎌倉幕府の三河の源頼朝の跡継ぎの正室の兄の血を引く
下剋上する側ではなく下剋上される側
下剋上とは、三河政権たる鎌倉幕府、室町幕府の既得権益者を滅ぼす事であるが
何か知らんが、尾張の田舎者は家康から逃げて、天下を取った気になっていた
だから猿吉一味の政治などおママゴトだと言ってんだよ
源頼朝は嫡男の正室に、曽祖父が開発した三河国の荘園の荘官をしていた足助重長の娘を選んだ
源頼朝の曽祖父は三河県豊田市民→三河県岡崎市民
源頼朝の祖父は三河県岡崎市民
源頼朝の嫡男の正室(辻殿)は三河県豊田市民
その嫡男の息子が鎌倉鶴岡八幡宮でやらかした公暁
・吾妻鏡では辻殿を妻、若狭局を愛妾としている
・源頼家(2代目鎌倉将軍)
藤原実範(三河守)→藤原季兼(三河四郎大夫、伊勢権守令)→藤原季範(初代藤姓熱田大宮司、額田冠者(三河国額田郡、三河県岡崎市))→由良御前→源頼朝 →頼家→公暁
・辻殿
足助(加茂)重長(三河国加茂郡足助、三河県豊田市)→辻殿(母は源為朝の娘)→公暁 >>365
最近だと2014年の黒田官兵衛が最後か >>322
そこは農民出身でどんぶり勘定してしまったなと
あれだけのし上がった割にあまり頭が良くなかったのかな >>339
こんな400年以上たってもクズ呼ばわりされるのが戦国武将だよねw
ウンコ家康とかアホ金吾とかw >>364
もうえーわ
ウンコ野郎のウンコ大河なんてみれたもんじゃない 領地の差配はまだ秀次が存命してた頃だからね。
まぁ秀次に腹切らせた後にしっかり
再編すべきだったと思うけど、
唐入りに全集中して
内より外に神経が向かってたんだろう。
その後の武断派と文治派の軋轢といい
結果的に唐入りは豊臣を滅亡させる契機になったね。 >>368
景勝だって信用してないんだから余剰の力なんか与えるわけねーだろ
お互いいがみ合いした三竦みの様なバランスが望ましくて地方でも強権なんて与えたくなかったんだから
家康みたいに中央に近い所で大勢力持たれるなら、遠方に追いやる為に渋々加増しただけ
秀吉が信頼してホイホイ加増したのなんて秀長だけだろ 上杉景勝と直江はよく最上領に攻め込んだよな
味方になってくれそうなのが仙北の小野寺義道しかいない状況で >>371
秀次処刑の時点でもう秀吉はぼけてただろって思うけどな
あれをやらなきゃ家康も動けずもうちょっと違う歴史なってたんだろうあと思う
まぁ歴史にifなんてないが >>373
当時の情勢みたらほぼ必然
・徳川は焦点を西に移したから攻めてこない
・佐竹と組下の岩城相馬は事実上の同盟国
・越後の堀は一揆で動けない
・伊達は動く気配なし
・上杉の庄内領は本領との間に最上領があり飛び地状態
この情勢なら最上を潰して庄内の飛び地状態を解消することが何より優先される。 >>372
渋々加増説はわかる
ただもうちょっとバランスよく配分したらよかったなと
最近新説と称して家康に全幅の信頼をおいて大領を与えたとか
秀吉の真意は自分が亡き後は家康政権希望とか調子こいたこと言うやつが増えてきたな 上杉景勝、秀吉に付き従ったのに加賀・能登を取り上げられる。
家康、秀吉に反抗したのに甲斐・信濃安堵。
家康関八州に入封、150万石→250万石に(67%加増)
景勝、越後90万石から会津120万石に転封(33%加増に過ぎず)
結果:景勝、中央政権に不満募らせる。 >>377
家康は反抗したけど負けてないからな
負けて無いのに領地なんか渡さないし、それでは和睦にならん
秀吉は一旦和睦してその他の長曽我部とか佐々とか根来衆なんかを片付けて武力討伐しようと思ってたけど、いざ攻め込む直前に大地震で領内や対徳川の前線基地が大被害
戦やってる場合じゃなくなって柔和政策に変更
徳川方も小牧の時みたいな秀吉包囲網は瓦解してるし、戦の連続で国内が疲弊してて渡りに船と話に乗った >>241訂正、1700年→1800年
ここは勉強になりまつね。 >>330
まあ究極的には五大老は誰も
秀吉に信用されてないんだろうけど
誰かに秀頼を任せるとしたら家康や利家で
輝元や景勝ではないんだろう
家康や利家は他の五大老よりは
秀吉との付き合いが長いからな >>365
伊達政宗とか、朝鮮出兵に関するシーン15秒ぐらいでお終えてたな >>379
前スレにも書いたが秀吉が家康と和睦に踏み切った理由は島津との交渉が不調に終わったことで急遽方針転換したからだよ
地震の影響は一時的なもんで、地震直後に秀吉は上杉に援軍要請して木曽口から家康を牽制するよう依頼し、秀吉自ら出馬する予定日を景勝に知らせている
秀吉は島津に大友との停戦命令を出したが義久がそれに従わず急遽家康と和睦して島津征伐に方針転換したのが原因 秀吉が、自分の死後に秀頼政権を諦め、
五大老の保護下で、秀頼が生き残るのが狙いだったなら…
秀次を死なせずに、秀次政権下で秀頼を保護してもらった方が
秀頼の生存率は高かったのではないだろうか? >>174
これ秀元は出ようとしてるのに吉川が通さなかったんじゃなかったか 宇喜多秀家が200万石くらいあればなあ猶子なのに石高60万石ねえとかなあ
マジで家康押さえ込むつもりなら、家康の旧領を宇喜多秀家にくれてやれば良かったのに
子飼いの家臣に信雄、家康の旧領あげたけど、ほぼみんな反石田とかなあ
他の人も言ってるけど秀吉の弱点は領土分配の適当さ
あれじゃあ揉めるわ >>382
五大老は誰もって宇喜多秀家を忘れてないか
最軽量級で頼りないのがアレだが >>386
そだよ
秀元が広家に山降りないなら俺たちは降りるぞ!とせっついたら広家が先鋒は吉川だ!勝手なことするな!といい返した。
当時の先鋒の権限は絶大だったから秀元も引っ込むしかなかった。 >>387
秀吉は秀次と繋がり深い豊臣系大名を家康旧領に配置し、
秀次を信雄旧領も支配させて彼等を統括させてたから、最初は適当ではないと思う。
けど、秀次粛清しても家康旧領はそのままの配置だったからなぁ。
宇喜多秀家に尾張三河をやって、駿河遠江に上杉景勝を配置とかした方が良かったと思う。 >>344
でも、お家取り潰しですよ、最上は。
徳川の意向に沿って、跡継ぎを長男から次男(だっけ?)に入れ替え、
それが原因で内紛が起こって、取り潰された。
義光の死んだあととはいえ。 毛利輝元は参戦しなければ、領土が安堵されると
思っていたとしたら、その浅はかさに大笑いだ。
もっとも戦っていたら、負けてさらし首になるところだったが。 西軍の実質的主力として思い切り勇戦した宇喜多は助命されとるやん
もっとも輝元と違い秀家は不思議なほどやたら人に好かれるタチだったようだが
信長に気に入られたり秀吉から一門に迎えられて高位を与えられたり
家康から秀高を婿にしてやると言われたり島津家には大変な時にかくまってもらえたり
所在バレで出頭した際には色んな大名から助命嘆願されたり
家康死後は流罪を解かれたり前田家に10万石任せるから戻って来いと言われたり >>335
「秀吉の側近は小者ばかり」と言われるように
有力者を避けてたのが秀吉
後の徳川政権も老中・大老は小大名にやらせてた所を見ると
権力を維持する上では必要なんだろう 結果的には家康が豊臣政権を乗っ取ったんだから西軍の方が
三成に野心がなかったら正しかったということでもあるんだよなw
といっても家康も秀吉が織田の基盤を奪ったのを真似しただけかもしれないが
まぁ実力の世界だからな
秀吉も織田の重臣やら信長の息子やらを倒していったからな >>372
景勝への加増は秀吉の死の年のことだから
やはり自分の死後の家康への対抗勢力として
期待してのことだろうな
しかしそれでいて家康のように中央から遠ざけた上での加増だから
「景勝も大坂から遠ざけた方が安心」とも考えていたろうな
江戸時代も大大名は島津、伊達、前田と
江戸から離れたのしかいない >>374
秀頼を大事に思うなら
秀頼への政権移譲を拒んだ秀次を殺すしかないだろう
しかし秀次切腹の段階では、
秀吉は自分はもっと長生きするつもりだったんだろうな
だから秀頼政権の可能性が十分あるように考えていた
しかし想定外に自分が早く死にそうになったので
秀頼政権は絶望的になってしまった
「家康政権に秀頼の保護を頼むくらいなら
秀次政権で秀頼を保護してもらった方が良かった…」と
秀吉は後悔したのだろうか? >>397
秀次の男児はともかく、
政略結婚のタマになる貴重な女児まで処刑してるから耄碌してたとしか思えんな >>388
秀吉にとっては宇喜多も
家康や利家に比べたら付き合い浅いだろ? >>398
秀次の三人の娘の内、秀吉が処刑したのは一人だけだよ
なぜ一人だけ殺されたのかは分からんが
女児を助けようとする意思はあった 上杉は家康が上洛したら攻めさせるつもりだった
上杉が出た後最上と伊達が攻めてきたら前田と真田が援護に入る
これで完璧だったはず
しかし、前田が真っ先に家康にしっぽ振ってしまったから
上杉は下手に動けなくなってしまった >>394
いや避けてたわけではなくて子飼いの武将を育てきれなかっただけじゃないの
結局、当時の常識からして何の地盤も持たない者を急速に引き上げるのは不公平に見えてしまうので
目をかけるにしても限界がある
結果的に、大物はある程度の勢力を元々持っていた外様が多いと言うことになる 伊達がいるのにどう南下するんだよ
伊達を味方に引き込めない時点で上杉は詰んでる 秀吉が家康に、大阪に挨拶しに来いやとなんどか促したが従わなかったのを、
秀吉が実母を人質に送るからというと参上したとか当時の感覚がわからないな。
それでもしも秀吉が実母は犠牲になっても、家康を謁見の時に殺害してたらどう
だったか。以前に戦闘をしたりしている間柄なのに。
また、二人きりで大阪城を見せて、この城の攻め方が分かるか?と聞いて
特異そうに、和睦として掘りを埋めれば良いんだというヒントを出してたり
するんだけれども、そのときにも家康を殺害する機会はあったろうに。
大物としての余裕の振る舞いを後の時代に残そうとして、将来の一族を滅ぼす
最大のキーパーソンを温存してしまった。
朝鮮征伐のときにも、徳川をすり減らしのためにわざと前線の戦陣に
送り出させることなどはできなかったのだろうか?
すべて歴史を知った上での後知恵でしかないけれども。豊臣に慢心があったと
思う。関白の位があれば刃向かいしないと思ってたのだろうか? >>404
いや、家康個人を暗殺しても徳川家が消滅するわけではないし。
むしろそうした背信行為による政治的ダメージはその後の戦争に悪影響をもたらす。 >>394
側近が大大名だと足利幕府みたいになってしまうからだろ 戦国時代の勝敗はすべて、領地の平野の広さで決まってるだけじゃん >>404
その頃は秀忠も成人していて家臣団も出来上がってる
家康一人殺した所で徳川領が服従するわけないし、面倒くさい三河家臣団なら団結して抵抗する未来しか見えない
それに母親ってのは思想的にも重要で犠牲にして相手暗殺なんかしたら部下も民衆もソッポ向いて天下人なんかなれない
よくある家督争いで兄弟に加担して命を狙った母親でも手を下す事は躊躇われる位
戦国DQN筆頭の伊達政宗だって比叡山を焼き討ちした信長だって敵対した母親には手を出してない >>407
中世の権力闘争は、領地の広さで決まって無いぞ
石高云々いうセンゴク(笑)馬鹿になるな
日本の歴史(中世〜近世)
◆鎌倉幕府(1185〜1333年)◆
【勝者】源頼朝:藤姓熱田大宮司一族(本貫地/三河国額田郡乙見)
・藤原季兼(別号:三河四郎大夫、三河国額田郡に居住)→藤原季範(別号:額田冠者、三河国額田郡に居住、初代藤姓熱田大宮宮司)→由良御前(源義朝の室)→源頼朝
◆室町幕府(1338〜1576年)◆
【勝者】足利尊氏:三河守護
・足利将軍家以外では、足利一門として吉良氏(本貫地/三河国幡豆郡吉良)、今川氏(本貫地/三河国碧海郡今川)、石橋氏(本貫地/三河国設楽郡石橋)が将軍継承権を有した
・守護職は本貫地を三河国にする者が最大人数
・奉公衆(江戸幕府の旗本に相当)は、本貫地を三河国にする者が最大人数、又三河国の奉公衆も最大人数
◆応仁の乱(1467〜1477年)◆
【勝者】細川政元:細川京兆家(本貫地/三河国額田郡細川)
・ ”東博本洛中洛外図”には当時の権力者として細川氏邸、額田氏邸(細川氏被官)が描かれている
◆明応の政変(1493年)◆
【勝者】細川政元:細川京兆家(本貫地/三河国額田郡細川)
・半将軍と呼ばれ、幕政を完全に掌握、事実上日本のトップに立つ
◆関ヶ原の戦い(1600年)◆
【勝者】徳川家康:本貫地/三河国加茂郡松平
◆江戸幕府(1603〜1868年)◆
【勝者】徳川家康:本貫地/三河国加茂郡松平
・大名の5割が三河国出身
・附家老の8割が三河国出身
・旗本の4割が三河国出身、高家筆頭は吉良氏(本貫地/三河国幡豆郡吉良)
◆大坂の役(1614〜1615年)◆
【勝者】徳川家康、徳川秀忠:本貫地/三河国加茂郡松平 あと、戦国以前は源平藤橘、戦国以降は新興勢力
コレも間違い
三河で連続している
中世近世は三河時代に変えないと見えてこない
鎌倉時代→三河時代鎌倉将軍期
室町時代→三河時代足利将軍期
江戸時代→三河時代徳川将軍期
こう変えよ
【三河最強伝説】
■源義家軍
総大将:源義家
本体:三河武士(郎党1 兵藤正経 三河国住人、郎党2 伴助兼 三河伴氏 三河国住人)
■源頼朝軍
総大将:源範頼(三河守)
本体:三河武士
■足利尊氏軍
総大将:足利尊氏(三河守護(但し当時は喪中))
本体:三河武士
■徳川家康軍
総大将:徳川家康(三河守)
本体:三河武士
■トヨタグループ
総大将:トヨタ自動車
本体:三河武士 >>323 大崎の分家が最上だっけ?
東北は親戚同士だからなあ〜争わずに同盟を結んで
南下すれば良いのに。 >>366 この辺りが日本の闇の部分だと思う。
結局、源平も平氏対平氏の内ゲバだし。 >>412
そいつは「三河キチ」という戦国時代板の荒らしだから相手にすんな >>397
後悔したろうけど既に秀次は死んで居ないからどーしようもない。だから死ぬとわかった時醜態晒した。 そもそも西軍にはリーダーがいなかったやん
だから負けた >>396
家康の対抗勢力と考えてたのなら、越後から動かさなかっただろうな。
移封は基本的に大名の勢力を大幅に削ぐからな。
>>403
それは伊達を過大評価しすぎ。
伊達の勢力では上杉の南下の抑えにもならんよ。 >>352
家康に嫌われてたと言われてるし、秀吉のもとに人質として送られてたときに
秀吉夫妻から可愛がられてたって話があるからね。
徳川陣営を切り崩すには、家康と関係が良好と言えない、結城秀康や松平忠輝
を離反させることが第一。
忠輝の義父は伊達政宗なので、伊達も引き込めれば北関東の徳川譜代は、ひと
たまりもなく壊滅だろう。
ただ、そういう数合わせの出来る策略家が大阪方には居なかったので、妄想の中
での出来事にしかならない。 源義家∶山城国で元服、前九年の役の功績で出羽守、のちに下野守、なお、前九年の役の戦功は出羽国人を味方につけたことによる。住まいは京都。
源頼朝∶三河とは直接なんの関係もない。
源範頼∶出身は遠江国蒲御厨で蒲冠者と呼ばれる。九州平定の総大将は三河守叙任のわずか2ヶ月後で、主力部隊は関東の御家人衆とその家臣団。は所領は武蔵国の吉見辺りで吉見御所と言われる。
足利尊氏∶足利氏とは下野国足利郡足利荘を所領したから足利氏である。高氏は陸奥国鎮守府の鎮守将軍のちに武蔵守
徳川家康∶徳川氏とは、上野国新田荘世良田郷徳川村を由来とするから徳川氏であるとされる。
三河の田舎侍が上野の出身を名乗り源氏長者に収まったが、三河人とは金で事実を買い取るかわいそうな人という評価が確定的に明らか 徳川陣営を切り崩すのになんでハードルの高い身内を標的にせなあかんのよ。
真っ先に調略すべきは京極等の畿内の諸大名なんだよな。そこらへんを抑えられなかったのが
オワットル >>420
伊達は強い弱いではなく当時の上杉領が伊達の旧領なので上杉にとっては厄介で脅威
白石も旧領時代から繋がってる地元百姓焚き付けて本国からの援軍撃退させて孤立無援状態にさせて1日で陥落させてる
上杉も上杉で旧領越後で一揆起こして堀の動き止めてるし領国を知り尽くしてる敵がいかに厄介か身をもって知ってたはず 三成が挙兵するの早すぎた小山くらいで家康軍は反転したんだし 直江兼続は有能なイメージだったけど、本当は先のことを考えないアホだっのか? >>424
でも南部領ではどさくさに紛れて一揆起こさせて領土拡大をねらったけど
あっさり撃退されてるよね。 >>427
南部領は伊達の旧領だったのか初めて知ったわ 仮に家康が敗れたとしても、賤しい茶坊主の天下が長続きできたはずはないんだよね〜 景勝に対局が読めたのなら家康は違う戦略をとっていたかも知れないじゃないか 白石の場合は城代が不在だったことの方が大きいかと。 >>431
なら和賀の問題やん
伊達は支援しただけ そもそも家康は上杉に背後を狙われる可能性を全く考えてなかったのか?
そんな間抜けじゃないだろ
逆に追撃してきた上杉を罠にはめるくらい考えただろ >>420
何を根拠に抑えにならないと言ってるのが分からんけど、景勝自身が輝元や三成等に宛てた書状の中で
「最上と伊達が不穏な動きを見せているが、もしこれに対処せず関東に攻め入れば厄介なことになる」と言ってるけどね
景勝自身がこう言ってるんだから間違いなく抑えになってるでしょ >>427
岩崎一揆は南部のが兵数多かったしあくまで元領主の和賀忠親を支援しただけだからその返しは不適当
例に出すなら伊達政宗自ら軍率いて失敗した福島城攻めだろうよ >>426
史実で見たら本家を120万石から30万石にしてる宰相みたいな筆頭家老が有能かどうかって事だな
更に当時の同僚からも奸臣とかボロクソ言われるが
大体家康の上杉討伐のきっかけも国替えの時に本来半分残す越後の年貢を景勝に無断で根こそぎ持ち出して堀から訴えられて家康大激怒だからな
有能無能で言ったら無能じゃないの 待ち構えてる白河まで引き込んだ上で決戦なってたら家康軍の3割から4割は削れてたんだよな
その後に三成が挙兵したら反転して関ヶ原で戦っても勝ち目がなかった
秀忠軍がまたしても真田に足止め食らうって前提でな >>424
そういうことです。
当時の領民は武士だか農民だかわからない連中が基本ですからね
米沢とか福島とか元々は伊達の発祥地です。上杉が警戒するのは当然です。 >>436
松川の合戦は関ヶ原の報をうけて「やべ、好き勝手やってたのがばれちまう」と
大慌てで上杉領へ攻め入っただけだから、比較対象とはならん気がするよ。 >>438
ま、南下するぞという姿勢をみせて東軍をけん制するだけでいいんだよね。
実際に決戦して戦う必要はあんまない。ま、畿内の西軍と連携する気がさらさら無かったんだろうな。 >>440
あれは関ヶ原の敗戦で上杉の攻勢がなくなったことを確認した政宗が本格的に福島領を奪取しに来た戦いでしょ
人数メンバーからみて伊達の本軍そのものです。 >>442
そうだよ、伊達軍がいかに話にならないかが非常によくわかる敗北。 >>427
いや結果はどうあれ工作が可能な分だけ「厄介」ではあるでしょ >>441
そういうこと
兼続も防衛戦が主軸で自領の深くに引き込んだ上の不敗の決戦用意であって
途中反転され他国領まで追いすがって追撃する考えはハナからない
でも三成と連携してるとしたら南下の姿勢を見せて牽制は出来たね >>438
前だか前々スレだか忘れたけど、
決起が遅れると西軍のメンツが史実より目減りする羽目になると言う指摘をしていた人がいたよ >>440
逆やぞ
関ヶ原の報告聞いてこれからは「よっしゃ!領土切り取りし放題だ〜ヒャッホーww」と意気揚々と攻め込んで撃退されたのが福島攻め >>446
白河は自国ホームというだけでなく兼続が練りに練った決戦場で
ここに引き込めば戦力差から勝ちきれるかはともかく
泥沼の戦いに引きずり込む計算はあったようだ
真田の戦略と同じだね
とりあえず東方戦線で徳川劣勢の報を聞いたらむしろ西軍につく武将が増えると思う >>447
黒田にしても、加藤にしても関ヶ原の結果を聞いて
恩賞以上の領土拡大をあきらめたのに
政宗はそこまで馬鹿なのか?
単に戦前の恩賞を守ってもらいたく戦功をあげに行っただけだろ。 >>448
しかし、小早川もだし島津もだし、
徳川に加勢するために軍を動かしてた大名が畿内に多数おったからな。 >>444
それはその通りだけど。
本当に徳川を壊滅させるために毛利(三成??)、畿内の西軍でと組んでの戦さなら
徳川を放置してそのまま西進させるほどの危険性はないかと。 >>449
百万石のお墨付きは領土切り取り次第だからな
上杉の劣勢になった時が絶好のチャンスだった >>452
そこで切り取れなかったんだから文句言える筋合いじゃないわな
実際切り取った白石領は伊達領として認められてる
2万石程度だけどw ちなみに中山道を行く秀忠の徳川主力には
秀忠軍には結城秀康 榊原康政 大久保忠隣に軍監で本多正信までついていながら
あの失態だから何度シュミレーションしてもやらかすだろう
秀忠は親父が結果勝利で後世あまり叩かれてないが
ああいうボンクラが大将だと絶対有利で有能家臣の誰が付こうが敗戦する好例だわ >>453
岩崎一揆の件で百万石のお墨付き反故されたとかいうけど実はあまり関係ないんだよね
伊達が自力で得た領土認めてるから最初から約束守ってる
そして岩崎一揆の件や最上の伊達への抗議も特にお咎めなしのアマアマ裁定 あーするしかなかっただろう。南進はしたかったと思う。
おそらく家康の脳裏にあったのは、三方ヶ原だろう。今回はあのときの武田のごとく敵に背を向け、追撃
してきたら待ち構えて打ち破る。だが上杉としてはとても10万相手に戦いはできない。伊達との戦いは
続いている。南進する機会は家康が江戸を発ち、江戸が手薄になったときだ。
それまでに後顧の憂いとなる伊達・最上に対処しなければならない。
伊達とは和睦がなった。最上については庄内上杉領攻略の準備を進めているとの報せがあった。向こう
がやる気ならやるまで。総兵力7千の最上勢なんかさっさと打ち破れるだろう。
だが、上杉には2つの誤算が生じた。
・最上を打ち破ることができなった。
・東西決戦が関ケ原1日で東軍圧勝で終わってしまった >>448
史実における決起の日から上杉と接触すると想定される日までもまだ間があって
少なくとも大谷、真田、島津は東軍に参加して抜けられなくなっているはず
伊達もそこまで戦況が進展してしまったら本格的に上杉攻めを開始せざるを得ない
一旦東軍に加わったのをひっくり返すには「善戦」程度では不十分で、家康を討ち取るくらいの奇跡的勝利が必要だけど
上杉の用意した防備体制はそういう決戦ができるほどの戦力じゃない >>452
一、苅田 一、伊達 一、信夫
一、二本松 一、塩松 一、田村
一、長井
と与える所領がすでに決まっていたから
切り取り次第ではないと聞いたけど?ちゃうの? >>422
何処が?
源頼朝 三河→鎌倉
寛伝 三河→日光
足利義兼 三河→足利
三河の源頼朝は、三河にあった自身の母方の菩提寺の僧を日光に送り込んだ
■日光山
源頼朝がその母方の従兄弟を別当に据えて以来、鎌倉幕府、関東公方、後北条氏の歴代を通じて東国の宗教的権威の一中心であり続けた
源頼朝
・藤原実範(三河守→藤原季兼(三河四郎大夫)→藤原季範(額田冠者(三河国額田郡)、初代藤姓熱田大宮司)→女(由良御前→源頼朝
寛伝(母方従兄弟、三河国滝山寺僧)
・藤原実範(三河守→藤原季兼(三河四郎大夫)→藤原季範(額田冠者(三河国額田郡)、初代藤姓熱田大宮司)→藤原範忠→寛伝
足利義兼(初代源姓足利氏)
・藤原実範(三河守)→藤原季兼(三河四郎大夫)→藤原季範(額田冠者(三河国額田郡)、初代藤姓熱田大宮司→女(実父は季範長男の範忠→足利義兼 >>422
何処が?
■正法寺(三河県豊川市赤坂町西裏69)
創建年:弘仁7年(816年)
開基:万巻上人
中興:了信坊(源範円)
・源義朝→源範頼(三河守)→源範円(正法寺(三河県豊川市)僧侶)→源為頼(初代吉見氏、室は小山朝政の娘)
正法寺の創建は聖徳太子が赤坂の地を訪れた際、太子堂を建立したことが始まりと伝えられている
弘仁7年(816)、万巻上人が病により太子堂で亡くなったことから、上人を開基と定め寺院として開山する
当初は天台宗の寺院でしたが貞永元年(1232)に親鸞が太子堂の参拝に訪れた際、当時の住職範円(源範頼の子息)が親鸞に教化され浄土真宗に改宗する >>458
その二人能力・実績にかなり差があるんだけど >>453
なお文句言える筋合いないのに文句言って更に2万石加増してもらった模様 >>422
何処が?
足利尊氏は妾の子
おそらく足利尊氏直義は、足利氏の大門屋敷(三河県岡崎市)の南方すぐ近くにあった上杉氏の日名屋敷で生まれた
■上杉氏
太田亮
上杉−勧修寺家支流と称するが疑問が大きい。
丹波国何鹿郡上杉庄より起り、上野を本拠として、越後や関東各地等に分る。
『東鑑』を含め確実な史料には、先祖重房の下向記事が見えず、足利家家人の上椙三郎入道(上杉頼重)より前は不明。
その出自は難解であるが、三河の日下部(穂国造一族か)と関係をもった場合も考えられ、その場合は、同国の足利被官で藤姓を称した杉山氏や大草氏と同族か
足利尊氏、直義が生まれただろう日名屋敷
■日名屋敷(事実上の始祖である上椙三郎入道(上杉頼重)の 屋敷)
鎌倉末期に三河国額田郡日名(三河県岡崎市)にあった上杉氏の屋敷。
足利貞氏室となり尊氏・直義を産んだ上杉頼重の娘清子が、暦応2年(1339)10月15日に丹波国光福寺(現綾部市安国寺)へ日名屋敷を寄進、
翌年4月5日に清子の甥上杉重能がこの屋敷を光福寺雑掌へ渡すよう岩堀右衛門三郎に命じている。
頼重は額田郡を含む足利氏所領群を管理する奉行人のひとりであったから、現地支配の拠点として上杉氏がこの屋敷を所領とし、頼重から女子清子に譲与されたものであろう。
日名屋敷跡伝承地の近くの墓地に14世紀後半の宝塔の笠1個がある。 >>463
戦前の切り取り次第だと、こんな細かく所領を指示しないと聞いたよ。 >>468
小和田哲男はそれらの所領を餌に家康が政宗に指示した説採用してるな >>422
日本は三河が回してんだよ
承久の乱の時に政子の檄文を読み上げたのは三河武士の安達景盛
北条が乗り越えられなかったのは、頼朝が構築した三河システム(三河縁者が武家社会を牛耳るシステム)
男系、女系共に源頼朝に近い足利氏が使命感をもって、武家社会を源頼朝の三河システム(三河縁者が武家社会を牛耳るシステム)に戻したのさ
その三河システムの存在は政子ちゃんは周知の事だ
頼朝やその息子孫がいなくなって、政子が頼りにしたのは三河で繋がる人々だったのは明白だろう、政子の葬儀奉行は三河守護の足利義氏だった
金剛三昧院(本尊、愛染明王は北条政子が、当時仏師として世間に名を広めていた運慶に依頼し、頼朝公の等身大の坐像念持仏として作成)
・建暦元年(1211年)、北条政子の発願により源頼朝菩提のために禅定院として創建する
・承久元年(1219年)、源実朝菩提のために禅定院を改築して金剛三昧院と改称し、以後将軍家の菩提寺として信仰する
・貞応2年(1223年)、北条政子が禅定如実として入道し、建立奉行を葛山景倫(願性)・安達景盛が務め、源頼朝と源実朝の菩提を弔うための多宝塔(国宝)を建立する
・嘉禎4年(1238年)、足利義氏は政子の十三回忌にあたり、当院に大仏殿を建立し、丈六の大日如来像を奉安して、政子と実朝公の遺骨を納める
・源実朝
藤原実範(三河守)→藤原季兼(三河四郎大夫、伊勢権守令)→藤原季範(初代藤姓熱田大宮司、額田冠者(三河国額田郡))→由良御前→源頼朝→源実朝
葛山景倫(願性)
藤原実範(三河守)→女(藤原季兼(三河四郎大夫、伊勢権守令)の妹)→高橋惟康(三河国高橋荘領主)→鮎沢惟兼→葛山惟忠→景忠→景倫(願性)
・安達景盛
小田野兼広(三河国八名郡小野田)→安達盛長(三河国小野田荘地頭、三河守護)→安達景盛(三河国小野田荘地頭、1221年まで三河守護だったか?)
・足利義氏
藤原実範(三河守)→藤原季兼(三河四郎大夫、伊勢権守令)→藤原季範(初代藤姓熱田大宮司、額田冠者(三河国額田郡))→女(養女)→足利義兼→足利義氏(三河守護) >>455
秀忠が大失態って俗説未だに根強いんだな
秀忠軍は最初から真田攻めのために中山道を通ることに決まっており真田を殲滅する事が第一目標
岐阜城が余りにも早く落ちたから家康が急遽秀忠に上洛するように使者を遣わすが、悪天候が重なり大雨のため使者が足止めされ家康の命令が遅れる
秀忠の元に命令が届いたのが9月8日で結果的に15日に合戦が始まってしまったが間に合うはずもない
実際秀忠が家康から叱責された話は後世編纂の軍記物にしか話がなく、
一次史料では秀忠が叱責や処分されたなんて記述はない
関ヶ原到着直後の秀忠が黒田長政に宛てた書状では
「路次中無由断罷上候得共、節所故令遅参候」(道中油断なく上洛してきたが、切所故に遅れた)
と簡単に状況説明してるくらいだ >>471
関ヶ原に間に合わなかったのは秀忠のせいじゃないが真田攻めが見っともない戦いぶりだったのは事実だな
秀忠に有能な武将であることを示すエピソードは1つも残っていない。
戦国真っ只中に当主でなくてよかった人物 >>472
秀忠が三方ヶ原だったらクソ+小便漏らしにゲロまで吐いて逃げ出しただろう >>474
逆に浜松城に籠城してて被害は少なかったやろな。 >>475
あーむしろ変なクソ意地で戦い仕掛けないで籠城でやり過ごしてたということか
確かにそれはあるな
自領を黙って通せるかって武門の意地とやらで打って出て壊滅した若き家康よか
ヘタレの要素が生きる場面もあるんだな 秀忠は武将としては無能だが政治家としては有能
そうでなければ家康が死んだらすぐに江戸幕府が滅んだはずだ >>472
あの時代、真田を信濃周辺で相手にする勢力は全部が全部撃退されとるから
みっともないということもない
単に真田がバグっとるだけや 烏帽子なんかかぶってすかしてるけど
透けて見える頭は下級役人にしか見えないんだよな・・
そりゃ家康公に舐められるわけだよ(´・ω・`) >>472
真田攻めがみっともないって刈田くらいの小競り合い程度しかしてないのにみっともないも糞もないでしょ
まさか真田軍記にあるような昌幸が寡兵で秀忠軍を翻弄したとか信じてるわけじゃないよな?
兵を損傷させ被害大きくなってでも無理攻めしたほうが良かったってか
決してそうは思わんけどな >>478
迎え受ける側だから準備も半端なかったしね 秀忠が関ヶ原の決戦に是が非でも参加したかったのは間違いないよね
でも遅れたのが失態とみなされたって言うのは話に尾鰭がついたという部類のことなんだろう >>481
真田は全然準備してなかったので三成からの連絡が直前で
「やるならもっと早く言えよ!」って切れてる記録が残ってる 秀忠と比べて上の世代の戦国武将オーラって後世からもその名前だけでわかるよな
上杉謙信 武田信玄 毛利元就 織田信長 北条氏康
東西軍どちらにせよこんなんが関ヶ原に陣取ってたらビビって対陣できんわ >>483
ちょっと違うな
準備のことじゃなく三成等の挙兵に関して昌幸が三成に文句と言うか意見を言ったっぽい
それに対してなんで事前に昌幸に挙兵することを知らせなかったかを三成が昌幸に返答した書状が真田家文書として今に伝わってる
その内容は
「この度の我々挙兵に関して事前に(昌幸に)お知らせすべきところ、お知らせせずさぞやお腹立ちのことと思います。
しかし内府が大坂にいる間は諸侍の心がいかにも計りがたく、具体的にお伝えするのを避けていました」 秀信の無意味な野戦
立花の無駄使いと、京極の部門の誉れ
結果論としてこれが全てだなw かつてボコられた武田信玄も上杉謙信も毛利元就も北条氏康も
アニキと慕った織田信長すらいない決戦場で相手はド素人の三成
勝って当然だし、上記の誰か一人でもも敵側に居ただけで家康はまたクソ漏らしてただろ 関ヶ原が天下分け目の戦いというが
直近の戦国時代の武将を考えたら当日現地で戦った武将ってどいつもこいつも2.5流 越後の上杉を会津に転封てのがそもそも良くなかったんじゃないか?
結局四方敵だらけで碌に動けなかったんだから
蒲生の後に別の親豊臣反徳川の武将で会津に入れた方がよかったんじゃないかな 毛利元就は酷いやつなんだが孫の世代で散々帳尻が合ってて笑えるw
まああれだけ無能な孫達が揃ってて滅びなかっただけでラッキーかw >>490
知らん
いなかったから仕方なく、なのか? >>490
基本的に関ヶ原の戦いの時点で「反豊臣」と言う立場の人はいないので全員が「親豊臣」
従って「反徳川」の全員がその条件に当てはまる >>489
それだな
保守的な越後人は会津に付いて行かず残って帰農した者も多かったろう
軍の弱体化につながる >>482
それは間違いないな
戦後徳川が全国の大名に睨みを利かせイニシアチブを握り続けるためにも必要だったと思う
本戦に参加した松平忠吉も早世してしまったがもう少し長生きしてたら徳川政権の中でも重要なポジションを担っていたに違いない 上杉景勝は無駄に豊臣家に義理堅かったな
前田家さえ裏切ったのにねえ
旧領取り上げられて会津の分断領地で仇敵の最上、伊達と睨み合いさせられたのに三成につくセンスねえわ
蒲生が役に立たねーから減封されての後釜なんだから明日は我が身なのにねえ
そもそも上杉景勝が大局を読んでたら家康に土下座してるから関ヶ原なんて起きてないわ
上杉景勝が大局読めなかったから、関ヶ原があったって思うがね >>494
よりによって最悪の男が福島に居たな、伊達にしてみたらw >>484
でも、そいつらの子孫は揃って秀忠に土下座してるんだぜ >>497
元々家康と景勝は因縁があるから簡単に頭下げられる間柄じゃないんだよ >>489
>>495
家康が反豊臣で景勝や氏郷が親豊臣の基準が意味不明
秀吉からしたら毛利も前田も含めて全部同じに信用なんかしてないだろ
宇喜多だけは多少毛色がちがうが
信長時代から大名やってる奴らは地方でお互い睨み合ってもらって、大坂と京付近の秀吉が取り立てた子飼大名が守る構想 >>502
むしろなぜ宇喜多に大加増しなかったのかと。 >>503
宇喜多は既にぶくぶく状態
あの家中の人材密度で加増してもろくに役に立たなかったよ
60万石でまとまらん家中を100万石にしてもねw >>504
景勝だって家臣を他から連れてきてるし、そこらへんは何とでもなる。
むしろかえってお家騒動を防げたかもしれない。 >>498
見解の相違じゃない?
最上も伊達も自分の旧領を治めてるサルの腰巾着なんて絶対いつかやり返してやる対象でしかないと思うし
豊臣への憎しみって点では最上義光は豊臣絶対殺すマンだから、サルの子飼いの三成と腰巾着の景勝なんてまあね
>>501
そりゃ因縁あるでしょ
でも大局読めてりゃ土下座するでしょって話
命の取り合いやってんのに『だが断る!』は無謀だ
あー歴史の話っておもしれえわ
色んな考えの人いるし >>504
へーそんなもんなんか
サルなんて浅井家臣とかを取り立てたり、行く先行く先で家来増やしてるから、
転封先の旧臣とか取り立てればそれなりの体裁になりそうに思ったが、急ごしらえはやっぱ駄目かね
そう思うと関東に飛ばされて石高は倍になって国力蓄えられた家康はさすがって事か >>503
朝鮮から帰国して五大老に任命されて直ぐに秀吉しんじゃったから
秀吉があと1年も生きてたら100万石行ってたんじゃないか >>493
当時の徳川は豊臣と政略結婚を繰り返して豊徳合体状態なので
家康は豊臣の身内という扱い
従って反徳川は反豊臣になる
だから豊臣家は西軍に軍資金も兵糧も一切支援しない
反豊臣勢力に豊臣家が身銭を切る方がおかしいからね 反豊臣勢力を大坂城に入城させてる方がはるかに・・・ >>507
家康の家来は一応家康自身が作り上げた自前の家来だからね
しかも関ヶ原の頃はちょうど世代交代終えて自分より年下ばかりになってたから使いやすい状態
宇喜多は秀家が若過ぎて家臣団に直家の元同僚とかがたくさん生き残ってたから大変だったんよ >>351
そこまでやっても裏切られ燃やされた
身内すら信じられない誰も信じないならバランスよく配分して突出して強い勢力を作らなければ良かった うーんなんだかここでの景勝の評価が低いな
じゃ御館の乱まで遡って景虎が謙信の後継者になり
上杉、北条、武田の大同盟まで行き着く事にして
それが現実化したら東北は軽く屠って三河や遠江の家康どころか
尾張美濃に機内を抑えてた信長ですらなすすべなかっただろう
謙信がどう考えてたか今となっては知るよしもないが
自分は上杉後継者としては景勝より景虎派だな
人質身分なよそ様の御曹司で来たにも関わらず
時間をかけて越後に居つき人望もかなりあったと聞くし
謙信も可愛がったというし相当有能だったんだろう >>352
加藤清正がキーマンになって家康を関ヶ原で退治する
志茂田景樹の小説もあった >>355
あの集まり具合には家康をしてなんとかしなきゃとはおもわせたろうな
それがあの大量の内応工作の書状に繋がった >>356
ザ・バカ殿といえば輝元くんだからなw
俺は直角に出てきた輝政くんみたいなイメージw >>357
10万以上の兵をかき集めてスライディング土下座するなら最初からやるなと言いたいw >>517
うむ、諏訪四郎勝頼、人生最大の判断ミスやな。
あのミスが無ければ滅ばなかった可能性すらある。 >>358
自分が助かるためなら勝家も裏切ったからな 御館の乱で景虎が勝ってれば
上杉武田北条の三国同盟ができたら北進も南下も思うがままに出来た >>1
石田三成=ドイツ軍
上杉景勝=大日本帝国
徳川家康=アメリカ、イギリスなどの連合軍
とくにこのケースだと徳川家康=ソ連
こんな構図だよな、完全にw >>359
煽られたから動いたというにはあまりにも素早い決起、大阪城入城だったけどな
実は煽られたんじゃなく前々から準備してて三成を動かしたのが毛利なんじゃないの >>521
>>520
と言うよりも、吉川といい、恵瓊といい、好き勝手やってるからな。
輝元に将としての才覚がなかったというよりは、毛利家の統治力が低かったとしか。 >>526
今は毛利家主導による西軍旗揚げというのが主流になってきてるな。
三成はそこに参加しただけで。 >>525
大日本帝国というにはちゃんと引き際は考えてて国を焼け野原にはしなかった
当時の戦国武将は割と負け方をちゃんと考えてた >>523
あれは裏切ったというよりは「マジびびって死にたくないから真っ先に逃げた」説が強い。 >>529
だよな秀吉の腰巾着に過ぎない三成さんのネームバリューで10万なんて集められるわけないしそこまでの大人物でもないだろうし 三成は三成で優秀だったから西軍でも重宝されたんやろな。 まぁ謙信なら追撃して散々に打ち破っただろう
手取川の追撃戦の通りだ
でも景勝じゃ行かないだろうなー
直江兼続も攻め込まれた自国領内で迎撃の撃破な想定しかしてないし 遡っていけば、みんなで家康の天下取りをアシストしてんだよ
義元が油断しなかったらとか
氏真がもうちょっとしっかりしてればとか
信玄が強欲じゃなければとか
勝頼が馬鹿じゃなければとか
信長が人望あればとか
北条がサルに土下座してればとか
サルが痴呆にならなければとか
あの狸オヤジのギリギリを生き抜いた天運は凄い >>529
主流にはなってないぞ
あくまで一つの説に過ぎない
七将襲撃事件後輝元と三成が結び付きを強めたのは史料からも分かるけどね
毛利研究の第一人者光成準治氏も輝元は通説で言われるような消極的な姿勢ではなく
むしろ積極的に軍事行動に関与してはいたが、挙兵に関しては輝元主導だったとは言ってない >>527
毛利家は元々元就個人と元就の3人の息子の個人的力量にかなり依存してデカくなった家だからな
関ヶ原の時の毛利本家の家臣にろくなやついなかったけど、元就の頃からそうだからw
元就と両川死んだらあんなもん
秀元と秀包はかなり優秀だから惜しいんだけどね >>494
上杉謙信ですら大苦戦して攻め落とせなかった猛将だもんね >>521
だから毛利や伊達とか武門の風上にも置けないくらいに考えてる
上杉くらい死ぬか生きるか賭けて武田や織田や徳川に向かって行った武門あんのか?と >>525
ドイツがソ連に侵攻したから日本も北進してソ連に侵攻してたらスターリンの居場所はなかったとかいうタラレバだな
現実には蒋介石との戦争で100万の兵力を中国大陸に動員してアメリカとの関係も悪化してたから北進なんかできるわけないんだけど >>534
謙信と言えど相手が守りに入ったら簡単には勝負付けられないと思うけど、
例えば下野に進撃したと見せかけて最上を釣り出した上で電撃的に反転して捕捉殲滅とかあり得たかも >>537
両川死んだらというけど、小早川なんか早々に秀吉に所領貰って独立しとるやん。
他の大名ではここであがる直江もそうだけど、秀吉の誘いを断ってる将が多いのに。
毛利家は何かちゃうわ。 >>540
それタラレバじゃなく
実際に関東軍がソ連国境付近で行った大演習でスターリンがビビって
極東軍を欧州戦線に送れなかったんだよな
ほとんど知られてないが関特演でググってみてくれ
だからこそ日本軍の南進の報でスターリンが狂喜乱舞し
欧州へ何十個師団ものの極東精鋭を送り込んで逆転した >>538
本庄さんは12歳くらいで両親の敵を自ら討ち取って家督を奪い取り、謙信に川中島でヘマしたあんたを救ったのが俺だろと言ってしまって大喧嘩になった方ですからねw
庄内では正宗で斬りつけてきた相手を返り討ちにしてその正宗分捕ってますからなw
当時の生ける伝説
実績だけ見たら本多忠勝より遥かに上かと >>544
何故か信野望では能力高くないんだよなあ。 君も将校だろう!だたの兵でないのなら大局的にものを見ろ! >>532
毛利を慕って集まった10万以上の兵を簡単に見捨て、徳川に内通までしてた輝元。
これが総大将って、支離滅裂の行動をするうつけものだな。 上杉軍の中でも上田衆ってのが別格な強さだったというが
戦中も新発田の第16連隊の寡黙で任務遂行する精強さは有名だった
こういうのが伝統なんだろう >>548
越後の兵隊さんは黙々と戦うそうです。
指揮官が優秀でないと気の毒ですな。 謙信女性説って皆さんはアリだと思う?月一で出てこない時があった、バイも普通な時代に男の子一辺倒だった、イメージよりかなり実際は低身長だったのを考えると無くはない気がするんだよ そんなに戦国時代には詳しくないが
西軍やる気なさ過ぎじゃね?
って印象を受ける >>550
明確に女性だとされてない以上ないんじゃね? 謙信ならどうしただろ
反転した徳川軍を下野くらいまでは追い散らして
武蔵国の江戸に引きこもった徳川を
そこから西で挙兵した三成の東進を待って包囲殲滅する戦略かな そんな上杉景勝公から 四股名を付けた
大関・貴景勝。
天下は取れないという事か >>1
石田三成と組んでいたらお取潰しになってたはずだが、
実際はどうだったんだろ? >>553
謙信は理に適ってない軍事行動なんてしたことないですよ
あの状況で関東に出るなんて行動しませんよ >>553
たとえ名将が率いていても戦力が少ないのは如何ともし難い
徳川が兵力を分散していない状況で正面からぶつかったら勝ち目ないよ >>531
非常に情けない武将だw
>>543
日本にスパイ送り込んでアメリカとやらせて挟み撃ちされないように仕向けたんだよな >>550
おんな城主直虎ってしょーもない大河やってたな昔w >>547
徳川に内通したのは吉川で輝元じゃない。輝元のあずかり知らぬこと。 >>561
毛利本家の家臣もバンバン内通してましたぜ
ボスだけなんも知らんのですか?w 謙信なら?
取り敢えず最上領を焼き討ちしまくって、伊達が出てきたら取り敢えず敵中突破して焼き討ち、反転して取り敢えず越後の堀を殺しつつ焼き討ち
全方位に焼き討ちしまくるのが謙信のイメージ >>563
謙信なら城にこもる敵は無視して、
田畑をあらして根こそぎ食料や金目のものを奪って自領に帰るだけじゃね。 >>563
上杉謙信は機動戦の権化みたいな感じで、大規模野戦は意外と少ないね >>561
安国寺一人のせいにすればいいから楽なもんよw
慶長5年8月17日付吉川広家宛黒田長政書状(吉川家文書)
「随而今度之一義、輝元義ハ被成御存知間敷候、安国寺一人之才覚と内府公も被思召候、
然上者、輝元へ御内儀能々被仰入、内府公御入魂ニ成候様に、御才覚専用ニ存候、」
この度の一件は輝元の預かり知らぬことで、安国寺一人の思いつきによるものであると内府公も思われている。
であるので輝元と内々によく話し合われ、内府公と昵懇の間柄となる様に、貴殿がお働きなさることが肝要です。 輝元が瀬戸内海でいけいけの書状を出しまくってる間に
部下が負けを確信して徳川に媚びを売るとか、輝元個人以前に、戦国大名として既にオワットルw >>36
直江って本当に色々やらかしまくってるのになんで人気だけは高いんだろうな >>568
掠奪王謙信
毎年冬になると北関東掠奪ツアーにやって来たw >>572
上杉の人気が高いからだろ。
その軍師的なポジションは直江しかおらんし。宇佐美はちとな。
日本人は何故か大名以上に軍師が好きだからな。 >>572
愛の兜のおかげ
あれで心優しい人だと勘違いされてる もし願いが叶うなら、
元就、隆景、元春の体制で関ヶ原の
シチュエーションを見てみたかった。
この三悪魔が家康や豊臣、三成相手に
どういう外交や用兵をしたか考えると
ワクワクする。 >>576
元就は本当に悪魔だからなあ
都合の良い時に面倒な人間が死んだり内紛起こす率が異様に高いw >>569
吉川小賢しいわw
だいたい巨大な毛利領没収しなければ、家康は恩賞与えようがないんだから、
毛利が無事でいられるわけがない
安国寺が正解よ!
毛利を守ろうと思えば、家康潰して天下取りに向かうしかなかった!
家康は自ら天下取りに動かなければ、いずれ自分が潰されるのは分かっていたからこそ、
秀吉死んだ途端に電光石火、天下取りに動いた!
吉川みたいな目の前しか見えない小者には大局的な判断ができなかった! >>570
一応長政は広家に戦後こんな同情の書状も送ってるぞ
現代人の感覚から言うと煽ってると取られてもおかしくないけど、長政は他意なく同情してると思う
慶長5年11月18日付吉川広家宛黒田長政書状(吉川家文書)
「御知行なと之儀者、前かとの首尾於相違仕者、拙者内ニて成共、可進之置心中候条」
御知行などの件は前の約束と違うことになってしまい、拙者の領地の内からでも貴方に進上したい気持ちです >>579
宇都宮を騙し討ちにした張本人だぞw
そんな殊勝な本心のわけがないw >>580
直家だったら、まっさきに西軍裏切っていただろ? >>579
煽ってないよ。そこらへんが長政の長政たる所以。 >>579
さすが長政
保身に長けているわw
一見脳筋を装った策士だからなw
恨み買わないように計算づくに見えるw 関が原で決戦なんて結果論だろ
応仁の乱のように長引くと思っていたんだろうから
まずは邪魔な最上から潰しに行ったのだろう >>583
そんな軽率な行動はしないぞ
売り時を慎重に見極めて100万石くらい取りに行くぜ そう結果論、岐阜城が落ちるまでは家康も長期戦は覚悟して江戸でのんびり??していた。
というか、状況をみつめていた。 >>586
だろ?
信長包囲網でも
毛利が頼りないと判断していたから
裏切って秀吉についたんだろ?
だったら、西軍の様子みて
これは東軍についたほうがいいわなと思うだろ >>585
だよなw
あの顔が策士にみえないあたりが曲者w >>581
まあ本心は長政にしか分からんことだけど、一応毛利・吉川の調略を家康から一任されてた以上こうやって慰めの言葉一つかけるだけでも印象は大分違うだろ >>592
外交の名手であることは間違いない
日本の侍はこうして揉まれてるから実は外交の名手が多い
井伊直政とかな >>590
前田、上杉、毛利と
つぎに潰されるの宇喜多家とわかってて、速攻裏切るだろうか?
最初からジャンピング土下座するか打ち勝つしか生き残る道はないのに。
毛利亡きあとは大勢も決まり、ジャンピング土下座しても許されない可能性の方が高いやろ。 >>595
まず直家だと家中の内紛が起きていない
これだけで全然違う >>594
島津の取次やってた井伊直政と山口直友は確かに外交上手だな
島津がほぼ無傷で残ったのもこの二人の尽力無しには語れないからな >>591
策士丸出しの親父だと、秀吉や毛利もみんな警戒するんだけど、
脳筋武闘派キャラの長政だと、みんな警戒解いちゃうんだよなw
だから福島も吉川、秀秋もコロッと策にかかったw
家康が勳功第一として大封与えたのは納得 >>598
大坂の陣屏風は長政が描かせたわけだからあそこに描かれてる長政はリアルの顔に近いはず
となると策士の顔してないもんなw >>592
最後まで曲者で正体を現さないんだな。
勝ち誇りもしない。
親父の薫陶か。 >>596
それで毛利なきあと徳川に対抗できるの? 上杉謙信ならそもそも会津盆地で防衛戦とか考えない
とにかく関東平野に躍り出て暴れまわったのちに補給に戻る
この繰り返しだ
謙信が越後に敵武将を侵入させることなんてなかったでしょ? >>587
だよね
堀が動けず伊達も日和見状態なら最上を攻めるのは妥当な判断かと >>602
謙信の頃の越後は背後に敵がいないの
そういう外交してたし
そして冬になると外から攻めにくくなるから毎年関東に出稼ぎに行ってたんだよ
だから信玄がしょっちゅう内紛煽ってただろ
そして本庄とか反乱起こしたら謙信も動きが制限されてた
謙信は本国を疎かにしたことは一度もないよ そんな外交の天才も豊後では痛い目にあい、
蝙蝠藤孝の息子に大笑いされるのがな。 >>575
効いたふうな口をきくなー
のイメージが強い
妻夫木聡の直江はちょっと違う >>1
黒田官兵衛は信長が殺され秀吉が泣いてる時に
「チャンスですよ」と助言して秀吉に恐れられて領地を与えられなかったと爆笑太田が言ってたが本当? >>585
捕まった三成さんに羽織をかけてあげたというのは本当なんだろうか >>607
それは吉川広家のほうだろう
小早川秀秋は、おねさまに家康に味方するように言われていたから
東軍に寝返った、ってのが小説とかでの説だけど
一級資料で確認できるのかは知らん 会津若松城は江戸城を除けば東日本最大級の城なのに、
景勝はそれに飽き足らず新たな拠点の神指城の建造にとりかかった。
明らかに家康に喧嘩売ってるよね。
伊達と組んで江戸を背後から襲うような展開になったら、
徳川は存亡の危機に追い込まれるから、
家康は転封間もない上杉が武備を整える前に動かなければならなかった。 そもそも小早川家は既に独立していて毛利とは関係ない。 そんなに詳しいわけじゃないんだけれど
西軍につくのって上杉景勝の要望があったのかな?
なんとなく石田三成と友人だった、直江兼続が石田三成と共闘したいから
上杉景勝をひっぱって西軍についた、ってイメージなんだよな
だとしたら直江兼続って、上杉家にとって疫病神みたいな存在じゃないかな? 上杉景勝に西軍に付く、東軍に付くの選択肢がある訳なかろうて。
上杉征伐の軍が事の発端なのに。西軍が上杉に助力するかどうかだ。 関ケ原で景勝は山形の最上家の小城攻めて最上義光にボコられてスゴスゴ撤退して上杉家にとっての関ヶ原は終わった
景勝は家康どころか山形の小城1つ落とせなかった >>617
いや、直江状で家康批判して
ケンカ売ったから、そんな状況に追い込まれたのであって
そのケンカを売るのは上杉の殿様の考えだったのかな?ってことよ >>618
毛利が関ヶ原敗戦後も徹底抗戦していたら最上は滅んでただろうね。 >>619
直江状が実際にあったという1次記録がないからなあ。 >>621
そうなんだ?
結局、当時の家康は他の大老たちに圧力をかけてきて
その圧力に対して前田家みたいに素直にしたがえば
前田家のように100万石が残り、反発すれば
家康と敵対勢力となったってことだろ
あの当時家康からの圧力に反発したのは上杉の殿様の意向なのか
なんか小説やドラマだと直江兼続が率先して家康に反発しているような
印象を受けるからさ
そのあたりどうだったのだろうね? >>620
歴史にifはないが伊達政宗に白石城落とされてたし
もっと時間あったら最上と伊達に挟んで攻められて滅亡してた可能性のほうが高いだろ 前田家は1番最初だったから許された面もある。
上杉がジャンピング土下座して謝罪してもどうだったかは未知数やね。 >>623
伊達なんて西軍崩壊が決まり撤退する上杉勢あいてに
全軍あげての総攻撃で福島城ひとつ抜けずに完敗して逃げ帰る程度のもんですが。 >>618
山形城を守る城はいくつもあって基本的に瞬時に落としてるぞ
ただそのうちな最後の1つを落とすのに意外に時間がかかってるうちに関ヶ原の敗報が届いて形勢が一変した。
伊達も国境に3000程出してるけどこれは最上を滅ぼした上杉か伊達領に入って来ないよう牽制するためのもので最上を守る気は全くなし。
最上は孤立無援状態だったので戦が長引いたら最上に勝ち目はなかった。 最上の援軍を考えてた南部に至っては、伊達に所領荒らしをされて警戒して動けないし。
しかも仕掛けた側なのに「南部ってめっちゃ強いんだぜ」と言ってブルッてるし、
ほんまに伊達はあの時何をしたかったのかと。 でも実際にはスゴスゴ逃げ帰って120万石を没収されて30万石にされちゃったねえ
これを無能と言わずに何と言うのかな >>627
家康が西に向かった段階でまず上杉と衝突しないように、次にできたら弱そうなとこ併呑しようと考えてたんだろ。
もちろん西の戦が長引くのが前提
そうなると北を攻めるしかないわな >>618
撤退したのは関ヶ原の野戦が終わったからであって
最上攻めに関しては緒戦でつまづいただけに過ぎず上杉の軍に攻勢の余力はまだ残っている >>629
南部にブルってるようじゃどことやっても無理じゃね。 >>613
小早川秀秋は、アル中で判断力が無くなってた
家臣が家の方針を決めてたとの説もあるな。 ほんの数年前までは朝鮮半島で陣頭指揮をとって大武勲をあげていたのに酷い言われようだな。 こんなの言い出したら、家康に味方した加藤清正や福島正則も終わってるし、秀頼や淀君に三成に味方することを勧めなかった奴らの大局観()はどうなるんだよ
大局観ってのは後知恵という意味なのか 直江がアンポンタンだったせいだろ
勝手に徳川に喧嘩売って先に潰そうとした戦力が4分の1の最上も抜けずに
最上から引き返す時に死ぬ死ぬ言って結局は死なず恥だけ晒した >>621
上杉との取次やってた西笑承兌が兼続に宛てた書状に対する返書が所謂直江状なんだけど、原本はないけどそれに近いものはあったと推測される
鹿苑日録って言う史料に承兌が受け取った兼続の返書が存在していると記述があるよ >>637
何もしてないけど、いいがかりで責められた。
でも前田はジャンピング土下座して謝った。 >>427
その一揆のせいで最上救援に向かってた南部軍が帰国する羽目になったと考えると
上杉が実際に南下した場合に同じことが起こるのは容易に考えられるので南下する際に目障りな存在だったのは変わりないだろう
ましてや上杉は会津に転封されたばかりでまだ領国安定してない 弱小最上すら倒せない上杉が徳川を倒せるわけないだろ >>626
慶長5年9月16日付最上義光宛伊達政宗書状によると3000も派兵してないぞ
「先我等祖父ニ候上野介為始、馬五百余騎、鉄炮七百丁はや申付候、明日相立申候」
私の祖父である上野介(留守政景)を始めとして馬500騎、鉄砲700丁を準備するよう命令してあり、明日出馬します。
(※なぜ政宗が政景のことを祖父と書いたのかは不明)
その後10月2日付留守政景宛伊達政宗書状では
「昨日合戦之様躰、御手前無比類由、不始義ニ候、殊百余人被討捕之由大慶ニ候、大合戦付而、定而味方ニも手負可有之候」
昨日の合戦の様子貴方の比類ない活躍は今に始まったことではないが、100余人討ち取られたとのことで大変目出度いことだ。
大きな合戦だったそうで、きっと味方にも手負いが出ていることだろう。
とあるから最上の援軍としての機能はしっかり果たしていた >>626
上杉軍は上山城の戦いも苦戦してるんだけどな 高台院(おね)が小早川秀秋や加藤清正、福島正則など自分が育てた子供たちに
家康に味方するようにと言っていたのって、
秀頼が秀吉の子じゃないと確信していたからなんだろうな
おねからすると秀吉の子を産んだとして権力を握っている淀殿こそが
豊臣政権の簒奪者と映っていたのだろう
豊臣は一代だけでいい、という結論になったんだろうな >>636
返書はあったけど、内容が直江状のようなものかはわからないと言うのが定説じゃないの?
今知られてる直江状は後世のつくり話でさ。 >>644
たとえ誰の血であろうとも豊臣家の断絶を望むとは思えないけどね
当時の発想として生物学的な血縁はそこまで重要じゃない >>639
それが本当に脅威で上杉勢が南下できないのなら、
畿内の西軍と連携しての家康への挟撃は
開戦前の構想段階からして無かったという事になるでよ。 >>641
淀君が秀頼を関ヶ原に行かせてたら後に自害する事にはならなかったな。
>>644
高台院(おね)のこの考えのせいで小早川秀秋や加藤清正、福島正則など自分が育てた子供たちの家も潰れたんだけどね >>641
ねねもアホだよ
ねねが家康の味方でなければ徳川の天下が来たかどうか 家康追撃したら、本国取られるだろ、バカじゃないのか >>645
それに近いと書いたけど実際どこまで近いかは不明
研究者間でも見解が分かれてるし現状定説みたいなものはない状態だけど、主流の説は現在伝わってるものに近い内容だった説だな
ただ表現が今に伝わる直江状ほど激しいものではなくもう少し目上の家康に配慮した言葉使いや内容だったんじゃないかと推測されてる >>649
徳川家康の勝利に一番貢献したのは
間違いなく、おねだよ
秀頼が秀吉の子でなかったから、淀殿を
豊臣政権の簒奪者として敵視したのか
あるいは自分が子をつくれなかったのに
あとから来た淀殿がいきなり世継ぎを産んだことへの
ただの嫉妬心のためだったか知らんけれど
関ヶ原の戦いから大坂の陣に至る豊臣家没落は
おねの力が半分くらい影響しているだろ 上杉って戊辰戦争でも越後回復を考えて、長岡藩に非協力だったな 会津藩よりはるかに協力的だったけど。
ただ弱かっただけで。 >>642
大河の独眼竜政宗だと、援軍は800だと言っていたね。 ねねが福島や加藤、小早川に家康に与するように言い含めたってのはどうなんだろうな
豪姫の夫、宇喜多秀家が三成より早く挙兵してその戦勝祈願に側近を行かせていたり関ヶ原後は
高台寺に福島や加藤が来てると避けてるように受け取れる記録があるようなんだけど >>614
違うのよ、神指城って軍事拠点としてではなく商業拠点的な築城なのに
恨みを買った堀に告げ口されたらカッコつけて武士だからとかなんとか、
要は由緒ある上杉家つえーしカッコイイ的な居直りが喧嘩ふっかけちゃった事になっただけ そもそも秀吉存命中でも家康が豊臣家をしのぐ
日本一の大大名であったことが、豊臣滅亡の
最大の原因だろう。 >>634
秀頼はお子様で判断力なし。
淀殿は、妹2人の嫁ぎ先の京極と徳川を心配してたんじゃないの。 >>661
心配してるなら毛利をとっとと大坂城から追い出せよw >>660
いやしのいでないでしょ
徳川家の石高は家臣の領地も含むんだから
徳川を250万石とする計算なら豊臣の石高は日本全国の総計になる 秀吉の失敗は朝鮮の役に徳川家康を出征させずに
豊臣恩顧の大名のほうを出征させて豊臣家恩顧の大名のほうを
徳川よりも疲弊させてしまったことだよな
老人ボケになっていたんだろう
豊臣政権安泰を考えたら、ここは最大のライバルになるうる徳川こそ
朝鮮出兵させておくべきだった まあ、サルの頭の中では、子飼いの武将に大陸分け与える予定だったから、子飼いの武将に功績を立てさせたいって事だったんだろうな
東国大名の力を削るなら、蝦夷地開拓なり、全国の街道整備なりにノルマ与えときゃよかったのにね
その辺のバランス考えられないくらいにボケてなきゃ出兵なんぞしてないだろうけど あんま調べたことないからよー知らんけど。
明を征服しなくても朝鮮半島の占拠した部分くらいは維持できなかったのかな。
そこに領地を与えればよか。 >>664
豊臣直轄の領地のことだ。大坂の陣のときの
かわいそうなくらいの秀頼の領地を見れば
秀吉は何をやっていたんだと怒りさえ覚える 秀吉の最大の弱点として代々の家臣団がいないから
子飼いの将に領地を配分しないとあかんからな。 >>670
誰だっけ?
朝鮮の地など寸土もいらんと言っていた武将がいたよな
島津義弘だっけ?
当時は日本人から見たら、相当価値がない土地だったんだろうな
米がとれなかったのかな? >>671
朝鮮でまともに米取れる様になったのは日本統治以後です >>668
そこは関ヶ原の恩賞って事で、160万石程家来に配らされてるからな
あくまで豊臣の家臣同士の戦いだから、勝った方に恩賞上げてねって形に持ってた家康の狡猾さだな
関ヶ原前は220万石で家康の250万石には及ばないが、金山銀山、貿易で金はうなってたからな
そこまで含めたら家康には勝ち目無かったよ >>659
それアホがでっち上げただけだから
言うとバカにされまくるぞ >>672
米がとれなくても
島津は朝鮮から人(陶工)を連れてきて
それで薩摩焼?だっけ?
陶磁器を盛んにさせて、後々の薩摩藩の財政を潤す産業を育てることになるんだよな
あの大久保利通もこの時に連れ帰った朝鮮人陶工の子孫なんだろ? >>665
秀吉は朝鮮出兵して勝つつもりだったから家康渡海させて諸大名の総指揮官にして勝っちゃったら、
ただでさえ250万石もあるのにさらに加増しなきゃいけないし、家康が配下の諸大名との結びつきが強くなって、
豊臣家を凌ぐ権勢を得るのを警戒したから外されたんだよ。 >>672
食料は獲れただろ。米作も開墾すればとれるようになる。
陶芸も盛んだし。領土にして損はない。 つうか明攻めるのに朝鮮半島攻めるあたりで秀吉惚けてるわな
そのルートだと明でも最強の満洲に駐屯してる部隊と戦わなくちゃならんし何よりそれに勝っても万里の長城越えなくちゃならないからめちゃくちゃしんどい
そんなとこ攻めるより無防備で豊かな江南に上陸してそこから時計回りに海に追い落とす様に横から北京落としたらイチコロだった。
現に李自成軍は長安から一気に北京落としちゃってる。
秀吉アホ過ぎ 仮定の話をしだしたら
バカ息子が遅刻しなければもっと楽勝だったともいえる >>678
秀吉って、当初は朝鮮人が
日本に協力して明をいっしょに攻めてくれると思っていたんだろ?
不思議な感覚だよな
で、日本と共闘しましょうという日本の申し出に
朝鮮側は完全に「?」何言ってんの?この人たち状態w
秀吉は国内では有能な外交能力をもっていたけれど
本当の外国との外交能力は皆無だったんだよなw
異民族相手の外交と日本人相手の外交とを混同してしまっていた >>677
メリットあったら朝鮮出兵の前に中国がとっくに支配しとる サルの一族でまともに成人した次世代って秀次だけだったんだよな
遺伝的に子供ができにくいのか、兄弟の子供も少ないし早くに死んでるしな
それなのに秀次殺してんだからもうね >>668
本来大領土受け継ぐはずの豊臣家の正統な嫡流で関白に正式就任していた人物が
どういう訳か一族虐殺の憂き目にあったので仕方ない >>678
つうか普通に樺太、千島、カムチャッカ方向に版図拡大すべきだった。
朝鮮、明なんかに目向けてる時点でアホ。 徳川軍団って江戸移転してから弱くなったんじゃないの?
関が原で戦ったのは豊臣子飼いだし、秀忠は真田に負けて遅刻。
大阪夏の陣は家康の首を取られるとこだった
幕末は旗本直参も役立たずだった >>668
いやだからなんで徳川の石高は家臣の分を含めて豊臣の分は含めないのって話をしてるんだけど
そして660では「秀吉存命中」と言っていたのに668では「大坂の陣のとき」にしれっと話をすり替えているのはどうかと思う >>686
最後にまともに戦ったの小牧長久手のあたりだからね
小田原攻めも徳川家にとっては大きな戦いじゃないし
でその後東海地方から関東移籍して10年。
将校クラスもかなり入れ替わるし徴兵する雑兵レベルは完全に違う兵。
そら強くなる要素ないわな。
主力は井伊以外関ヶ原では殆ど戦ってないからその状態でさらに15年。主力軍団構成する家はさらに移籍してるからたとえば榊原家といってもそれは榊原康政バリバリの頃とは全く別の部隊でしょ。 >>684
樺太までならいいけど
アムール川の方まで進出して
VS康熙帝なんてことになったらw
豊臣が続いてるか知らないけど >>678
渡海しやすいところから橋頭保作ったってのもあるだろ。
兵輸送、食糧輸送の大船団を組んで上陸ともなると、
かなり面倒だからな。
当時の日本はそこまで大きい船もあまり作る技術がなかったし。
あとは半島西岸から対岸への移動も楽だろうし。
モンゴルだって、半島経由で軍隊を送ってるし。
という部分もあるだろ。
朝鮮に案内しろやと言って断られての討伐と言う経緯もあるだろうし >>678
朝鮮半島抑えれば黄海を交通路に使えるんでないの 二重否定で表現するやつは頭が悪い
スレタイのことな >>680
朝鮮の民衆は最初のうち日本軍を李朝の圧政からの解放者として捉えていたと言う話もあるようだけど >>688
西国大名で朝鮮出兵した連中は戦慣れして強兵だったみたいだね 二重公儀説には眉唾だったけど関ヶ原後も官位レースでは
秀頼のほうが秀忠よりも上だった時期が続いたんだよな。
関白を摂関家に戻して武家関白制に
蓋をしたから秀頼の関白就任は難しかったと思うけど。
大坂冬の陣では、豊臣家が外交力をフル稼働させて
天子から和議停戦の勅命を貰ってるから朝廷に対する影響力はまだあったっぽいね。
まぁ家康は無視したけど。 おおつぼねを読めないバカ殿かあ
と思いきやオレの先走り汁的思考がバカだったと言うオチ >>676
主力として突っ込ませて疲弊させて
もし勝ったら朝鮮半島ぜんぶ与えて大加増してやってもう帰ってくるなでいいじゃん >>543
全然違う
現実には満州軍がソビエト警戒で釘付けされてる
戦後のプロパガンダとして日ソ不可侵条約破棄の口実にされたのが関特演
実際のところ関特演の配置のまま、ジェーコフは縦深攻撃かけてるから無意味。
> 1941年6月に独ソ戦が勃発すると陸軍内部には「北進論」が渦巻き、
陸軍省は慎重であったが参謀本部は即時開戦に傾いた。
そして、原嘉道枢密院議長・東條英機陸相の下、関東軍特種演習(関特演)と称して85万人を動員し「南北併進論」にこぎつけることに成功した。
しかし1941年7月、日本が仏領インドシナ南部に進駐したことで、アメリカ合衆国は対日全面禁輸に踏み切る。
日本は戦争物資の枯渇に直面し、石油の備蓄は平時で2年分、戦時で1年半分しかなかった[3]。
「北進」はあくまでもソ連の打倒が目的であり、得られる資源は北樺太の原油程度にすぎず、日本国の需要を賄えるものではなかった。
また、極東ソ連軍との兵力差もあり陸軍・関東軍は1941年8月9日に年内の対ソ開戦の可能性を断念、以降関東軍は対ソ国境警備のみを行うに留まった。 >>461
三河部落はわが新田本宗家の家来である世良田氏の
さらに分家の外の分家
だから世良田にも新田にも系図がない
ゆえに三河部落はNG 史実を逆算で考えたらいけない。
秀吉は毛利や前田や上杉より、家康の方が秀頼守護に適任だと判断したんだろう。
別に信頼しているとかではなくね。
そもそも秀吉は誰一人、心から信用していないし。
最も適任なのが家康だっただけ。
ベストからは程遠いベター。
拒否ったから改易したけど旧主家筋の織田信雄を
100万石超の大大名の地位に維持させようとしたし
秀吉ってそういう意味では寛容だしね。 >>422
違う
得川と書く
清和源氏新田氏本家
>家来のうちの雑魚=足利についた世良田氏
→三河領を受領する
本領ではなく植民地三河
以降世良田の系図には書かれてない
※つまり婚外子扱い
>その分家が得川氏を名乗る
これを三河得川という。
三河得川の分家が松平を名乗る
ウジは世良田。世良田のうちの二番目の位置の得川の
三番目の子孫だから
世良田二郎三郎家康。超雑魚 >>696
いや秀頼はきっちり関白ルートよ
右大臣になったのがその証拠
公家の先例だと摂政関白になる家系なんですよ。
だから家康は放置せずに潰しに行ったんです。
秀頼は大坂城出て所領も返して完全に公家になるべきでしたな。
公家の豊臣家なら徳川の邪魔にはならなかったからです。 >>702
秀吉が徳川を関東に置いたのは、
清和源氏の世良田郷出身であるので、
本貫地に戻しただけ
遠ざけたとか、左遷したとかの説もあるが、
当時の関東の石高では武蔵が日本一、二位が上野
どう考えても関東はおいしかった
しかも坂東武者の棟梁は清和源氏に決まってるので、
家康が旧領である関東、
織田に中京やるのが当たり前
越後の上杉は叛逆してるから転封させて、
前田を加賀において任せたのも当然
毛利は安堵
島津も安堵 >>686
実際に家康は真田幸村に首とられたって説はあるんだよな
そこから死ぬまでの家康は影武者だったって
大坂夏の陣から家康死ぬまでは一年くらいじゃなかったっけな
死因もタイの天ぷら食べ過ぎとか変だったしw >>700
関特演の配置のまま?
1945年の満洲侵攻のことを言っているなら全然戦力が違うし
1941〜42年のソ連軍の反撃のことを言っているなら縦深攻撃と言えるほどのものじゃない >>706
それが史実なら、大坂の陣ってピエロだな。
命張った人たちがあまりに気の毒。 >>701
部落ってなんだい
美味しい食べ物かい
被差別同和地区数
01位 福岡県 606地区 13位 徳島県 95地区 25位 宮崎県 36地区 36位 三河県 03地区
02位 広島県 472地区 14位 山口県 92地区 26位 茨城県 32地区
03位 愛媛県 457地区 15位 島根県 86地区 27位 静岡県 21地区
04位 兵庫県 341地区 16位 奈良県 82地区 28位 新潟県 18地区
05位 岡山県 295地区 17位 大分県 81地区 29位 佐賀県 17地区
06位 埼玉県 274地区 18位 栃木県 77地区 30位 岐阜県 15地区
07位 長野県 254地区 19位 高知県 72地区 31位 千葉県 14地区
08位 三重県 203地区 20位 滋賀県 64地区 32位 神奈川 11地区
09位 群馬県 164地区 21位 熊本県 50地区 33位 福井県 07地区
10位 京都府 142地区 22位 大阪府 48地区 34位 尾張パゴヤ共和国(笑) 06地区
11位 鳥取県 107地区 23位 香川県 46地区 34位 山梨県 06地区
12位 和歌山 104地区 24位 鹿児島 43地区 36位 長崎県 03地区 >>705
物を知らない田舎者だな
そりゃ左遷じゃないよ
南関東は三河の植民地だからな
三河の王が三河の植民地に移っただけの話
有史以来、武蔵国にあった御所号は全3ヶ所
■平安時代
・吉見御所(埼玉県吉見町)
源範頼(三河守)の息子、源範円(正法寺(三河国宝飯郡、三河県豊川市)僧侶)が移り住む
範円の息子(為頼)から吉見氏と名乗る
現在も、吉見姓は三河県蒲郡市(源範頼の本拠)が日本一多い
■室町時代
・世田谷御所(東京都世田谷区)
長瀬四郎(三河国碧海郡長瀬、三河県岡崎市)を祖する奥州吉良氏、三河国生まれ吉良治家(初代奥州管領、吉良貞家の息)が移り住む
■戦国時代
・蒔田御所(横浜市南区)
長瀬四郎(三河国碧海郡長瀬、三河県岡崎市)を祖とする奥州吉良氏、吉良頼康が移り住む
家康入城前の江戸城主は富永直勝
三河国設楽郡富永保を本貫とする三河富永氏
家紋は木瓜に足利二つ引両(太平記、多々良浜の戦いの功労により、家紋に足利二つ引両を与えられる)
先祖は源頼義の家来、鶴岡八幡宮社職家の三河伴氏の平松氏、源義家の郎党No.2 三河伴氏の伴助兼 だから、日本は三河が回していると行っているだろ
後北条にせよ、その家臣団共々三河の王なら臣従するんだよ
後北条氏の先祖、伊勢俊継
伊勢氏(藤原俊経→伊勢俊継(初代伊勢氏)→伊勢盛継→伊勢貞継)
■藤原俊経(****〜1238):初代伊勢氏・伊勢俊継の父
・肥前前司
・法名願仏
・弟の相模法橋円辰と円辰の子大進法眼増恵は三河国滝山寺僧侶
・三河国滝山寺に持仏堂を造営する(後に持仏堂は、甥の大進法眼増恵に譲られる)
・三河国滝山寺に古市場御油畠を寄進する
・歴仁元年(1238)5月13日、京都東山一切経の谷で死去
■伊勢俊継(1217〜1274):初代伊勢氏
・藤原俊経の息
・伊勢前司
・建長7年(1255)、三河国滝山寺に、足利義氏追善の法華堂(宝幢寺)を造営、この堂に田畠3町8段を寄進、足利家氏に働きかけ、家氏の三河国碧海荘青野、宇祢部の料田畠を寄進させる
・天照大神のお告げで姓を伊勢に変える
・文永11年(1274)6月23日、鎌倉で死去
■円辰(****〜****):初代伊勢氏・伊勢俊継の叔父
・藤原俊経の弟
・三河国滝山寺僧
・相模法橋
■増恵(1209〜1283):初代伊勢氏・伊勢俊継の従兄弟
・円辰の息
・三河国滝山寺僧
・聖蓮坊大進法眼
・叔父藤原俊経の持仏堂を譲られ、自身の持仏堂とする
・吉良荘の奉行として、吉良氏の所領経営をする
・建長6年(1254)、本堂屋根瓦替工事の大勧進を勤め、同年、温室を改造する
・正嘉元年(1257)、一切経蔵を造営する
・文応2年(1261)、山王社の宝殿を改築する
・弘安6年(1283)2月13日、鎌倉滞在中に死去 足利氏、細川氏、松平氏、全部この像を見てんだよ
何で、こんな像があるのか、裏の事情も知ってな
知らない奴がトンチンカンな事ばかり言ってやがる
源頼朝の齒と顎髭を埋め込まれた聖観音像(三河県岡崎市)
http://takisanji.net/jihou_hou_seikanx.html そもそも本能寺から関ケ原、江戸幕府安定まで
各大名の記録はあるものの、情報の闇鍋状態じゃん
よほどのトンデモじゃない限り否定できないワ >>708
別にピエロじゃ無いだろ
豊臣が滅んで徳川幕府が盤石になったって意味は大いにあるだろ
家康は自分の身が犠牲になった代償と考えれば >>694
兵糧を現地調達したことで圧政していた朝鮮と変わんねえじゃんと現地民の反感をかってしまった >>706
鯛の天ぷら説はかなり前から否定されてる >>705
賀茂氏、源氏を代替わりでコロコロ変えながら自称してた松平が、叙任の際にお金で藤氏になり、更に金積んで源氏長者にするために源氏にしたのが自称得川。三河の田舎の土民を本領に戻すなんてそんな考え猿には毛頭ない。原野を体よく押し付けて、見かけの加増をしたのが江戸入府。 >>706
いまだに鯛の天ぷらとか言ってるやつは、
どんだけ情弱なんだよwww
多分、60近くのじじい。 まあ松平氏も正体は地元の金満土木建設業一族みたいなもん。
清康の活躍なんて眉唾もんだし。 >>717
物を知らない田舎者か?
戻っているが
日本の全てを決めてきた田舎者憧れ山手線内、江戸城中の人
■関が原の戦い以後に生まれた三河譜代藩主の老中
【三河県幸田町】三河深溝藩
・板倉重矩(1665年 - 1668年、1670年 - 1673年)
【三河県田原市】三河田原藩
・戸田忠昌(1681年 - 1699年)
【三河県豊橋市・豊川市】三河吉田藩
・小笠原長重(1697年 - 1705年、1709年 - 1710年)
・久世重之(1713年 - 1720年)
・松平信祝(1730年 - 1744年)
・松平信明(1788年 - 1803年、1806年 - 1817年)
・松平信順(1837年)
【三河県岡崎市】岡崎藩
・水野忠之(1717年 - 1730年)
・松平康福(1762年 - 1788年)
・本多忠民(1860年 - 1862年、1864年 - 1865年)
【三河県刈谷市】三河刈谷藩
・本多忠良(1734年 - 1746年)
【三河県碧南市】三河大浜藩
・水野忠友(1781年 - 1788年、1796年 - 1802年)
【三河県西尾市・豊田市】三河西尾藩
・松平乗完(1789年 - 1793年)
・松平乗寛(1822年 - 1839年)
・松平乗全(1845年 - 1855年、1858年 - 1860年) >>720
物を知らない田舎者か?
松平は天皇とダチの家
松平3代目、松平信光創建
・信明光寺(1451年創建) 1479年、後土御門天皇勅願所綸旨発給
・妙心寺(1461年創建) 1481年、後土御門天皇勅願所綸旨発給 松平は、三河の源頼朝の曽祖父が開発した源氏ゆかりの荘園内にあり、三河の源頼朝の跡継ぎの正室が出た家が荘官やっていた
家康は、その正室の兄の血を引くと言ってんだろ
そして、この荘園こそ、皇室が所有していた最大の荘園だった
松平郷に地の力があるのは流石は最大の皇室領と言うしかないですなw
出自の悪い田舎者は見抜けず、何もない山の中に見えるらしいが
■三河国高橋荘・高橋新荘
豊田市ほぼ全域とみよし市は源頼朝の曽祖父が開発し、後に皇室に寄進された最大の皇室領荘園
高橋新荘から松平家が、高橋荘からはトヨタ自動車が発祥した
・開発者は源頼朝の曽祖父、藤原季兼か?
・寄進者は藤原季兼の妹の子供、高橋惟康(藤原伊周の孫)か?
・平安末期〜戦国期に見える荘園名
・矢作川中流域の低地と山間部、豊田市(旧上郷町・高岡町を除く)・三好町・藤岡町・小原村にまたがる大荘園
・八条院領目録に院分御荘として「参河国高橋荘」「参河国高橋新荘」とあり、鳥羽院政期の院領寄進系荘園の一例とみられる
・寄進者は藤原(高橋)惟康か←藤原伊周の孫、源頼朝曽祖父の妹の息子
・八条院没後、春華門院昇子ー順徳天皇ー後高倉院→安嘉門院邦子ー亀山天皇ー後宇多天皇ー昭慶門院憙子と相伝される
・昭慶門院目録に、高橋荘は亀山院の時石清水八幡宮に寄進、新荘は冨小路前大納言(小倉実教)とあるのは領家職とみられる そもそも上杉には判断ミスなんてなくてほぼぜんいんが隠れ東軍やなんちゃって西軍だったんじゃないの?知らぬは三成と近親ばかりと >>724
それなら、戦後に減封されていないからw >>616
そもそも越後からの引っ越しで本来半分残す年貢を兼続の独断て全部持ち出す
堀に恨みを買って、家康に激怒され上杉討伐のきっかけを与えた
目先だけ見れば堀は一揆で身動きとれなくなり懐は潤ったが、五大老家のやる様な事ではないし結局当番対象で最後はあの様
仮に討伐免れるなら堀への返却はしなくちゃならず恥かくだけ
兼続は大国の家老としては小手先の事しかできない無能だよ
1000石位の用人なら優秀だろうけど >>638
上杉は国替えで堀の分の年貢掠め取ると言う大失態を犯してるんだよ
前田とは全く違い言い掛かりじゃない
自業自得 >>728
前田に対するいいがかりが通るなら家康潰しの口実なんてなんぼでも用意できたのにアホな太閤さんw 山本五十六といい上杉景勝といい新潟出身は大局読めない
総じて雪国出身者は忍耐強いから下士官向き >>729
いや別に前田の勢力を減らすことができたわけじゃないんだが 日本の医療はアベ捏造カルテや昭和のインチキを見ても
殺人的に酷い 今の政治が分からないのに数百年前の
政治について分かる訳がないだろ。
おおばか 直江が有能扱いなのが分からんわな
喧嘩売ってそのまま潰されるとかギャグやん 歴史物語って今の政治に都合のいい様に創作されたものでは?
信じていいの?? >>737
今の政治にって、政治状況が変わる度に毎度毎度歴史が全部書き換えられているとでも? 家康がヘボだったのか三成が名将だったのか。どっちなんだ? >>738
簡単に記録ができない時代は為政者の都合でコロコロ変わってただろうね 関ヶ原の時大阪城に引き篭もってたいた連中もボンクラだな >>620
関ヶ原敗戦後に輝元が何しようが上杉の命運は変わらん
佐竹は義重が家康に謝罪の使者送ったり東軍派が主流になってるし堀もその頃には一揆鎮圧させてる
もはや周り敵だらけの四面楚歌状態で最上に再出兵に戦力割く余裕はない >>734
避戦派や徳川との交渉役を一方的にスパイ扱いして追い出したり刺客送って暗殺させたりしてまで戦の準備してたのになw >>734
直江がやった事の資料が残ってないだけじゃない?
負け側の田舎者だし
資料だけが消えて、人の評判だけが残った ヘンタイアニメに書いてあったけど、なんでもそっちの素質があるから女つけたら
見事にはまったんだって 上杉の会津国替えは栄転だったのか左遷だったのか
石高が上がっても先祖伝来の地を離れるのはどうなのかな
幕末には越後回復を狙ってたみたいだし >>4
太閤検地と刀狩
天下泰平の為の大仕事
有力者に嫌われまくり
政権短命やむなし
秀吉は分かってやり遂げたと思う >>728
それは左遷された蒲生家が会津の年貢を持ち去ったからでしょう >>748
将軍にならずに太閤の地位を得たのは新しい時代を切り開いて続かせる意図ではないかと思っている >>4
全部秀吉がやらせてただけなのに
頭が悪い奴は三成を憎み東軍へ
それを理解してた賢い武将は三成に協力した
それをみていた狸の悪だくみで関ケ原の戦いへ
そしてまんまと豊臣の兵力が消耗した 上杉鷹山の藩政改革が兼続の評価をあげることになったんだよな。 >>742
それは関ヶ原後に毛利があっさり撤退して西軍の敗北が決定したからでしょ。
毛利が徹底抗戦していれば最上攻略は続いたし、長谷堂城も大津城ごとくいずれ陥落するやん。 >>728
せやな、黒田長政と同レベルやな。
ま、どっちも秀吉さんや家康さんからは処罰を受けなかったが。 上杉と石田がもうちょい上手くやれば九州荒らしてた黒田如水にもワンチャンあったのにね >>755
決戦が一日で終わるとは普通思わんしまあドンマイ >>753
九州に清正と黒田がいるから
さっさと帰りたかったんだろ
上杉と同じ状態だ
小西は落とされたんよね >>750
将軍の地位に深い意味はない
武家の棟梁は実態が先行するもので官位は帽子に過ぎない
どんな帽子かはあまり関係ない
それをよく表すのが信長に対する三職推任
関白、太政大臣、征夷大将軍のどれか好きなものになってくださいとお願いしている
朝廷にとっては武家の棟梁である信長になんか相応しい官位についてもらいたいと思ってこんなこと申し出ているわけよ >>755
家康と事前に申し合わせた上での如水の軍事行動なのに荒らしてたとは? いろいろ複合的な条件見合わせても
西軍に勝機があったとは思えないんだがな
話おもしろくするために
もし○○なら西軍勝ってたって話がよく出るけど >>753
関ヶ原の結果だけ聞いて撤退してるんだが >>757
今更帰っても、どうせ徳川に潰されるんだから意味ないのに。 >>740
為政者はそんなに暇じゃねーよ
自分に関係のある記述ならともかく歴史全体を一々書き換えるとか正気の沙汰じゃない >>761
撤退決定は9月29日と言うことだから、野戦敗北の第一報だけではなくてその後数日の状況も入っている可能性はある 蒲生氏郷が亡くなった後の空白を上杉景勝で埋めたのが間違いだね。
天下を狙う気概が乏しすぎる。
江戸を攻める機会をうかがってた伊達政宗に会津を返還してれば、
家康はうかつに動けず関が原の帰趨も変わってたはず。 毛利輝元は大坂城で成り行きを見て、
双方が消耗しきった頃合いで
勝ち馬に乗る計算もあったんだろう。
いわゆる風見鶏の火事場泥棒。
数だけみたら10万兵勝負、それも野戦だからね。
荒れいくさになると勘違いもするよ。
もし徳川の軍勢が半壊でもしてたら追撃してやろうか!くらいの甘い考えだよ。
結果、半日足らずで決して
さぞかし慌てただろうね。 >>765
当時の伊達さんが天下を狙うとか言ってもなあ。
大宝寺が「よーしパパ、最上も小野寺も秋田も倒して、出羽国を統一しちゃうぞ」と言ってるようなもんだしな。 会津上杉の領土がおかしいんだよ
最上義光とバチバチになるのわかってんだろと
最上滅ぼすかどっかに転封させとけと
下野も蒲生に残さず上杉に与えて家康と領土接させておけば良いのに
中途半端な領土与えたから中途半端な動きしかできねーだろと
そこまでの一流武将じゃねーんだから
サルが悪い >>730
長岡の56を持ち出すならそこは景勝ではなくガトリング家老かと
>>749
蒲生も蒲生だが一応大老だから言い訳になんないカッコ悪さ はいはい、吉川英治の小説は石田方に付いた事になってるのか。紛らわしい、戦は負けなしか(´・ω・`) 蒲生が持っていったのを知ってるのだから
堀も越前から持っていくべきだったな。 >>769
秀次の連座で15歳の姫を頃して畜生塚に埋めたからな。最上の恨みがが怖くて怖くてたまらなかったんだろ。直江もいるし上杉置けば安泰だと思っちゃったんじゃね? 義元が死に信玄が死に信長が死に秀長が死に秀吉が死に利家が死に清正が死に昌幸が死に
目の上のタンコブが常に先に死んでいってしまうそれが家康 >>777
そもそも秀次と顔合わせもしてなかったのに殺す必要あったんかね・・・当然妊娠なんてしてないから秀次の子を生む可能性もないのに。
秀吉狂いすぎだろ。 >>779
天下をとる上で寿命の長さは大事
信長や秀吉の失敗を目の当たりに出来たのも大きい >>776
その辺は戦と同じ、情報戦だな
名人久太郎が生きてたらこんなヘマはすまい。
というか久太郎が生きてたら越後30万石なんかじゃなかったろうな 直江が作ったと言われている反論文書は、家康側による
ねつ造だろう。因縁をつけては潰していく。仕上がりは
秀頼に対する因縁。 家康は自分で薬草調合するくらい
健康に気をつけていた。 しかし、当初上杉討伐で東北まで赴き関ケ原まで逆走って、有り得るんかね。兵糧とか。
まあ、歴史はねつ造だから興味も余りないんだが。 項羽のような軍神がいれば少数精鋭部隊で家康の首を取れただろ >>786
ちょうどこの頃死にそうになってんだよね
1番太ってた頃だし
でよけいに健康オタクになり医師の言うこと聞かなくなったw >>784
いやそれなら内容はもうちょっと曖昧な物言いにするんでないの >>753
関ヶ原で負けた時点で西軍の負けは確定やぞ
その後福知山城など畿内の西軍派の城は次々と落とされて淀殿も元々は家康派
輝元が大阪で駄々こねても情勢は変わらかった 輝元は東軍が大坂にやってくる前にさっさと本国帰って徹底抗戦の構えで徳川と交渉すりゃ良かったのに。
本国から離れた大坂で籠城しても兵士の士気は上がらないし、豊臣家も味方になってくれないしどうしようもなかったのに。 >>753
兼続じゃ無理かと
長谷堂までの経緯を見ても最上にやられすぎ
関ヶ原の結果がどうだろうと落とせたとは到底思えない
ヘタに深追いし過ぎて長谷堂から身動き取れなくなったら
会津攻められてる可能性も高い 最上にすら勝てない上杉が徳川の背後を突いたくらいで勝てると思うか?
まず無理だろ >>766
そもそも輝元本人が遠く離れて戦わない状態で
西軍が消耗しきるまで命がけで戦うわけがないという単純なことに気付かないのが輝元 当時の上杉はガチの内乱に領地替えにボロボロやぞ
有能でないからだけど >>797
関東に攻めても結城秀康に普通に勝てなかったろうな
佐竹が動いてたらわからんかったが
まあ義重がいたからこっちも無理だろうし >>796
いや最上が緒戦で善戦したとしてもそれがいつまでも続くことは保証されないよ
結局は戦力が違うわけだし >>762
関ヶ原で内応した吉川家の領土を毛利家が貰った形で存続出来たけど
毛利家は一度取り潰しになってるな。 >>788
景虎が勝っていたら北条の属軍みたいになり果てていたかな?
そしたら北条の最大版図は300万石は超えていたよね
そしたら家康も簡単に信濃攻略はいかなかったろうし >>802
佐竹って義重の頃から北條や伊達に負けてばっかだからあまりあてにならんかとw >>806
越後あたりは織田の格好の調略対象になりそうだから結果はあまり変わらないかと >>803
初戦どころの騒ぎじゃない
連戦連敗で長谷堂たどり着く前に重臣クラスまでかなりの損害出してて
戦線維持に精一杯と言う状況だった
もともと義光は山形に兵を集めてて戦線を伸ばさせる消耗戦をさせるため
あえて支城の兵は少なくしてたのに
長谷堂どころか兵数500程度の上山でさえ落とせず大損害を受けて追い返されてた始末
兵が多ければ落とせるなんてほど甘くない
またいつまでも会津が手薄なまま放置して貰えるほど甘くもない
長谷堂で上杉がもっと消耗して動けなくなれば間違いなく伊達が動く
完全に無理筋 >>809
どのみちたった半月ばかりの出来事だから緒戦の域を出ないよ >>809
いくつか持ちこたえた城があったと言うだけで、落ちた城もある。
城を攻められている側の逆襲はあくまで城を拠点とした襲撃的な作戦行動に過ぎず相手の「戦線」を脅かすことはない。
攻め手に損害を与えて撃退したとしても守備側も確実に損害は受けるものであり、戦力の補充がないならば何度も同じ事ができるわけではない。
兵数に大きな差があり時間に制限がなければ必ず落ちる。
何度か撃退できたからと言って永久にそれが続けられると思う方が考えが甘い。 山形に援軍が来る状態じゃないからね
西が長引いたら最上は滅亡不可避の状態だよ。 立花と毛利って既に無線で連絡取ってたって読んだんだけど本当かな
音質は悪かったみたいだけど 最上義光はある意味、東軍側の真田昌幸みたいなものだよ。
上杉軍を釘付けにしたという意味で最高の働きをしたわけだ。
そんな最上家もお家騒動で潰されたけどな。
徳川幕府はえげつねえな。 京の公家社会からあぶれて、父の受領国である三河に土着し、領主化武士化した一族から鎌倉将軍家と足利将軍家が輩出され
同じく三河から、徳川将軍家とトヨグループを排出した
この三河系が日本の現代社会においても君臨しているのだが
センゴク(笑)だとか明治維新とか勉強してもみえてこないんだよ
三河の藤姓熱田大宮司家(藤原南家貞嗣流)
系図
藤原実範(三河守)→藤原季兼(三河四郎大夫、伊勢権守令)→藤原季範(初代藤姓熱田大宮司家、額田冠者(三河国額田郡))→女→源頼朝(初代鎌倉将軍)
藤原実範(三河守)→藤原季兼(三河四郎大夫、伊勢権守令)→藤原季範(初代藤姓熱田大宮司家、額田冠者(三河国額田郡))→女→足利義兼(初代源姓足利氏)
■藤姓熱田大宮司家(本貫地:三河国額田郡乙見、三河県岡崎市)
・頼朝の母方の曾祖父藤原季兼(三河四郎大夫)は、三河国司を多数輩出した一族(祖父の兄、父、弟)に生まれる
・季兼は、伊勢神宮領荘園の荘官として都を下り三河国加茂郡(三河県豊田市)に土着する
・季兼は、三河国加茂郡(三河県豊田市)の未開拓の土地を開発し、高橋荘・高橋新荘(後世 八条院領大覚寺統)を立券する
・季兼は、三河国額田郡(三河県岡崎市)に移り住み、青木川菅生川流域(菅生郷)を開発、荘園化せず自らの本拠とする(後に、権益は血縁である足利氏に)
・季兼は、三河国設楽郡稲木(三河県新城市)の稲木長者を滅ぼし、東三河を支配下におく
・季兼室の松御前(尾張員職の娘)は、晩年新城市稲木で過し没した(城ヶ峰の山頂(三河県新城市)に墓あり) >>815
続き
・季兼は、藤原資良(父の従兄弟)が尾張守になり、息子(藤原季範、額田冠者)と共に三河に住みながら尾張目代を務める 信長包囲網の中でも裏切らず
あれだけ長年苦労させられた
武田家滅亡の恩賞が
たった駿河一国、15万石の加増でも
喜んでみせた家康の姿を、
秀吉は信長のそばで見てきたからね。
その家康の律儀な姿勢が脳裏に焼きついて
無意識のうちに判断材料に
加味されていてもおかしくはない。 刀狩りも上杉転封も土着の武士とも農民ともつかない連中が領主の下一丸となって抵抗してくる怖ろしさから考え出されたもので、その恩恵を最も受けるのは豊臣の奉行である三成だったはず、だった。何しろ三成は中国山地とは似ても似つかない平原の忍城を水攻めするほどの間抜け。 関ヶ原以降の一次、二次資料を調べると面白いけど
毛利宗家は関ヶ原2日後に徳川と交渉に乗り出している。
輝元が大坂城で判断したんだろうけど、ちょっとズレてるよね。
滅亡か否かの合戦だったのに、その認識に薄い印象を受ける。
その後、家康は女子供には預かり知らぬ事
として淀と秀頼の責任はないと発言。
あきらかに豊臣政権内紛の枠からは逸脱した発言で
この言いぐさは外様大名のソレだよ。
この時点で徳川家は豊臣政権から
精神的離脱を果たしていたんだろう。 >>684 寒くて戦略的価値がない。
米が取れないし、嗜好品しかない。 >>820
関ケ原は豊臣をつぶす戦じゃないよ
そこから間違ってる
豊臣を追い込むのに邪魔な三成派をつぶすのが目的だよ
だから清正や正則、黒田長政等の高台院派が協力した 参謀の直江兼続が無能ということで終わったはずだが。花の慶次で持ち上げられすぎ あらためて関ヶ原に布陣した武将の一覧を見たが
どいつもこいつも二流以下で萎えたわ
ここに武田信玄軍が東西どちらかに布陣、いや馬場信春や山県昌景でもいいや
それだけで勝敗が決まってしまうって 信玄や謙信に北条氏康
毛利元就や織田信長もそうだが
こういう前時代の巨人に関ヶ原の時代のヘタレが勝てるわけがない
蹴散らされるわ >>825
山県はともかく一枚も武田氏朱印状の奏者に名前がなく、軍政の中心にいなかったことが一次史料から明らかな馬場が一流?
過大評価もいいとこだな 徳川と石田って時点で戦下手の弱い奴同士の争い
大将は弱いけど出陣してる武将にはチラホラ強いのがいるな関ヶ原は
島左近、島津、福島、加藤あたりは猛者と言える あら?まだやってたの?
島津や上杉は距離的に関ケ原に集中できず、
1日で終わると思わなかったので、
近くの領土を手っ取り早く増やしたかった
これで結論出てたはず、
ただ、結果論的に上杉景勝は無能だった
有能であった故に家ごと潰された武田勝頼、
無能で離れてたばかりに家が残った上杉家、
どちらが正しいのか分からんが >>828
ゲームならそうだろうな
島左近なんてほとんど一次史料もなく近年石田三成の書状に領内の年貢の税率にを決める担当者として左近の名前が登場したり、
5年前に島左近自身の書状が発見されて、小田原征伐後の佐竹の取次を務めたことが判明したりとぽつぽつ新史料が発見されてきてる
まだまだ何をした人なのか分かってないよ
一応言っとくと関ヶ原合戦での左近と黒田長政との激戦は一次史料にはない話 >>818
猿のくせに狸の猿芝居にコロッと騙されよったw >>823
豊臣を追い込む意図はあったわけだ
つまりゆくゆく潰すつもりだったんだな >>829
勝頼は強かったけど、有能ではないな。
外交、内政に関しては数々の失策を積み重ねて、滅亡してる。 >>819
高松城は中国山地が尽きて岡山平野が始まる境のへんで
自転車でよく通るがまっ平なところにある城だぜ >>835
高松城攻めの堤防 約3km
忍城攻めの石田堤 約14km、一説には28kmともw まあ関ヶ原の武将が二流に見えるのは、活躍機会が無かった時代だからな
あの布陣に、一流武将を仮想で並べるだけで脳汁ドパドパな訳だが
親世代の名前と交換したら布陣やべーだろ
南宮山に毛利元就、吉川元春
松尾山に小早川隆景ってだけでちびるわ >>579
「前の約束」とは?
その前の手紙で毛利の領地没収は決定してるから
毛利領地安堵のことではないよね?
吉川広家 - Wikipedia
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%90%89%E5%B7%9D%E5%BA%83%E5%AE%B6#%E6%AF%9B%E5%88%A9%E5%AE%B6%E6%94%B9%E6%98%93%E3%81%AE%E5%8D%B1%E6%A9%9F
10月2日になって黒田長政から以下の内容の書簡が届いた。
家康からの毛利領安堵の密約は、
輝元が否応なしに総大将に担ぎ上げられた場合のみである。
ところが大坂城から発見された西軍の連判状の数々に
輝元の花押があった。困った事だ。
毛利の所領は没収のうえ改易されるであろう。 >>838
慶長5年10月2日付吉川広家宛黒田長政書状って見たことないから
さっき東京大学史料編纂所の古文書フルテキストデータベースで確認してみたけどやっぱないぞ
見落としてるのかもしれんけどほんとにあるなら翻刻文見てみたいわ
気になるし時間ある時に吉川史料館に問い合わせてみようかな
自分が知ってる慶長5年に黒田長政が吉川広家に宛てた書状は(ここには書かないけどこの時期如水もかなり広家に書状出してる)
・8月17日付
・8月25日付
・9月14日付(福島正則と連署)
・9月29日付
・9月30日付(福島正則と連署)
・11月18日付
あとそのwikiの下の記事の周防・長門を安堵するって言う家康起請文は確かに吉川家文書にある
一部条文のところだけ抜粋すると、
(慶長5年)10月10日付徳川家康起請文 毛利輝元・毛利秀就宛
一、周防・長門両国進置候事、
(周防・長門二ヶ国を与える事)
一、御父子身命異儀在間敷事、
(輝元・秀就父子の命は保証する事)
一、虚説等在之付而者、可遂糺明事、
(虚説等があれば究明を遂げる事) >>832
潰すかどうかはしらんが、大人しく恭順しても最低でも織田家並みの小大名にしたかったんだろうなぁ。 スレタイに戻ると、上杉景勝如きでは戦況は覆せなかった。おわり。 >>841
それは景勝個人の能力のことを言っているのか景勝率いる上杉家のことを言っているのか?
記事は後者にはそのポテンシャルがあったのに前者のせいで敗北したと言っているがそれに賛同するのか反対するのか? >>838
本当にそんな書状があるのか気になったから吉川史料館にメールで聞いてみた
後日回答があると思うがその時まだスレが落ちてなければ報告するよ
個人的にはその書状は後世編纂の軍記物なんかの中にある話で実際にはないと見てる >>842
転封先でいきなり上杉軍が戦国時代最強くらいの力を発揮できるとでも?ムリだろ。 >>1は上杉軍を過大評価しつつ上杉景勝を過小評価している
それに尽きる 上杉の立場になれば、あの動きがベターだわな。
上杉があらかじめ短期決着、東軍圧勝が
分かってて動いたかのような論調は
まさに未来人の神の視点による批判だよ。
批判するか否かの議論に立たせるとしたら
上杉ではなく、地蔵のテルこと輝元だろう。 >>837
うわー
みてえ
誰か戦国オールスターの仮想戦記物のゲーム作らねーかな >>847
末代までの恥というのは輝元のことを言うんだろうな
令和になってもテルとか言われてるしw
幕末においても毛利の殿様がだらしないから若手藩士主導の倒幕になってしまった 本当の天下分け目の決戦は
関ヶ原ではなく大坂の陣だろう。
現君主徳川家と前君主豊臣家の直接的軍事対決。
豊臣が籠城を選ばすに先手で野戦を展開してたら面白かった。
浪人衆といえど、大逆転狙いで士気は高かったようだし。
なんなら京を落として秀頼を上洛させ
九条や朝廷や禁裏を徹底的に脅しあげて
即、関白就任を狙っても良かった。
どうせ負けたら全員死亡で、滅亡なんだから。 >>849
でもそうせい候だったからこそ長州藩士は暴れまくれたと思うよ。
ホントの無能藩主や逆に自信過剰な有能な藩主だったらあそこまで動けなかったはず。 >>811
あれだけあちこちで損害出さされて大軍をいつまでも維持出来ると思ってる方が甘い
ゲリラ戦挑んでる側の消耗なんてたかが知れてるよ、もともと捨て身だし
上杉の進軍開始は9月1日、長谷堂での戦いは10月1日
ひと月かけて山形城にかする事も出来てない状況で
東北のこの時期でいつまでも戦線維持できると思うのはアホそのもの
既に麓では伊達の援軍が到着し始めてる中で
ヘタに深追いし過ぎて帰れなくなったら伊達と徳川に会津落とされて詰むだけかと >>852
逆だよ
小規模な部隊の反撃で大軍相手に損害を与えても、相手の全体から見れば軽微なもの
小規模な側は損害の絶対数は少なくても比率では大きくなるので戦いが続けば確実に不利になる
と言うか拠点防御であってゲリラ戦ではない
最上方の複数の城が陥落しておりその度に戦力は消耗している
上杉が最上領への攻撃を開始したのは9月8日で、長谷堂城の攻撃を開始したのは9月15日。
9月29日まで攻撃を行った後撤退を開始した
大軍の作戦行動としてはまだ始まったばかりという状況で、関ヶ原での西軍の敗北が伝わらなければそんなところで止める理由がない
また、伊達が最上に味方して動き始めたのは上杉が撤退を始めた後、10月1日のことだ >>853
伊達の援軍である留守政景の軍事行動はもっと早いよ
10月1日ほど大規模な戦闘ではなかったけど長谷堂付近で戦闘してる
慶長5年9月27日付留守政景宛伊達政宗書状(留守家文書)では
「廿四日ニ歒陣近邊へ被打出之由、殊はせ堂口ニ而、少々被討捕之由珎重候」
24日に敵陣近辺へ打って出られたそうで、特に長谷堂口では少々敵を討ち取られたそうで目出度いことだ >>854
失礼、動き始めたのは確かにもっと早かった もし上杉が越後のままだったら関ヶ原はどういう展開になったんだろう? 直江が年貢を盗まず上杉討伐もない、三成は田舎大名のちに改易じゃないかな >>857
秀吉が茶々を側室にしてから
茶々はその頃から復讐を考えてた
そして大野の子を産み、高台院を追い出し
徳川に最後まで逆らい
豊臣を亡ぼすことに成功した >>856
上杉討伐の原因とされてるものが無くなるから全く違う話になる 前田、上杉には何かしら難癖つけて
従属を求めただろうな。
毛利宇喜多に対しても。
隙を作らず信長にも秀吉にも難癖つけられずに
生き延びる事ができた家康にしてみると
なかなかの一興だったかもしれないね。 赤穂浪士の件は、
吉良家と上杉家に対する徳川の意趣返し。 >>853
比率で考えても上杉側の損害の方がデカいです
名のある武将まで首取られてるし
損害ばっかり出てる経緯見ても
大将の兼続の軍事能力が極めて低い
関ヶ原関係なく劣勢も劣勢、山城はよほどの兵力差でもヘタ打ったらなかなか手こずるのはこの時代の常識
それを山形城どころか長谷堂どころか捨て石にした上山でさえほうほうの体で追い返されてた状況で
何ヶ月かけて落とせる気でいるのか
せめて景勝本人が指揮してればまだしも
あの状況から勝てる要素は見当たらない
兵が多ければ落とせるなんてほど甘くない
また関ヶ原が終わらなければ血気盛んな結城秀康がいつまでも大人しく待ってるかどうか
最悪家康に籠絡された佐竹も会津に攻めてくる
もちろん伊達は最初から上杉の消耗待ち
とっくに詰んでるよ >>863
比率?落城した城は戦力が100%消滅しているわけなんだけど?
いずれにせよ攻勢をかける以上ある程度の損害は想定内
長谷堂や上山が抵抗を続けているとは言え僅かな期間で最上の複数の城が落ちていることは事実
防御側が重点防御している拠点がある程度の期間頑強に抵抗するなんてことも良くあることで驚くには値しない
後詰がなければ大兵力で攻められた城は高確率で落ちる
特に鉄砲の時代になってから小さな城が長期間抵抗を続けることは難しくなった
結城秀康は単独では攻勢を行うのに十分な兵力は与えられていない
全体の戦況を鑑みても攻撃を行うのは西方がある程度片付いて万全の態勢を整えてからになるのは確実
慌てる必要がない
と言うかそれでももし仮に秀康や佐竹の攻撃が開始されれば最上を攻めている場合ではなくなるだろうけど
それ今の話と関係なくない?
元をたどると「最上攻めが関ヶ原の結果に関わらず失敗していたかどうか」だったはず
関ヶ原で東軍が敗北しながら結城秀康が上杉攻めにこだわると言う状況が良くわからないんだけど 上杉軍の攻撃が上手く回ってない部分があったのは事実だろうけど
そこから景勝や兼続の極端な過小評価につなげたり
それを成立させるために史実をゆがめたり戦理を無視するような議論を始めてしまうのはどうかと思うよ >>862
跡継ぎがない時点で上杉を潰せたのに、
保科が奔走して、とりあえずお家存続させているので、
それはない。 >>864
逆だよ、鉄砲で守りやすくなったんだよ
実際長谷堂どころか上山でさえ落とせなかったわけで
捨て石にした少数の空城落とした程度で戦線伸びきってボロボロにされてた状況で勝つのは無理だよ
なお捨て石にした事は義光の書状が残ってるし
まんまと誘い込まれてそこから全く攻められないままあちこちからボロボロにされた
これでは関ヶ原関係なく全く勝ち目がないよ
少しでも危うければ結城佐竹伊達が侵攻してくることも関ヶ原は関係ない
なんなら伊達はもっと長引くと思ってたろうし
それ自体が上杉が迂闊に深追い出来ず、最上に勝てない要素の一つになる >>865
むしろ初っ端から最後まで全く良いとこ無しの長谷堂合戦と言う結果があるのに
関ヶ原本戦に責任負わせて
それが無ければ数が多いから勝てたと強弁するのはいかがなものかと
無理だろ、あの流れじゃとしか言いようが無い >>819
だって、秀吉が水攻めがよくね?ってお手紙くれたんだから、
逆らえるわけがない。
忍城周辺は沼地なので、周囲360度を囲んで一斉に攻めるという方法が
取りにくい地形だったようだけど。 家康が勝って良かった
秀頼天下とか想像しただけでも恐ろしい >>819
平原 笑
利根川付け替え前の忍は湿地帯です
ふつうに利根川の氾濫原
あ、浦和がうなぎの産地とか、
見沼田圃とか、見沼渡しとか知らねえのか >>868
戦いに勢いは重要って言うけど勢いだけですべてが決まるわけでもない
戦の序盤で堅く守られた城の攻略にてこずるなんてのは極めてありふれた話で
その部分だけ切り取っても何の判断基準にもならない 今更もしもの話をした所でなにも変わるわけでも無いし馬鹿なのお前ら。 >>839
自分も原文は見てないが、そういう資料があるってのは
他でも言われてるな
ただ偽物じゃないかとは言われている
http://repo.beppu-u.ac.jp/modules/xoonips/download.php/sg04205.pdf?file_id=6707
なお、毛利輝元への減封処分への経緯に関連して、
10月2日付吉川広家宛黒田長政起請文(208)、
慶長5年10月3日付福島正則・黒田長政宛吉川広家
起請文(209)の存在があり、それぞれの起請文の前替において、
前者では、中国地方で吉川広家に対して
1~2ヶ国を与えることを黒田長政が伝え、
後者では、そうしたことは吉川広家の本意ではないので、
毛利輝元と同罰を与えてほしい、と吉川広家が伝えている。
この史料について、光成準治氏は史料批判を加え、
10月3日付吉川広家宛黒田長政普状も含めて、
この3通の文書は「大日本古文書」に収録されていない
(つまり、原本が吉川家に伝来していない)ことや、
慶長5年10月3日付福島正則・黒田長政宛吉川広家起請文は
受領したはずの黒田家に伝来していないことを理由として、
偽文書の可能性を指摘している
(208) (慶長5年) 10月2日付吉川家宛黒田長政起請文」(家康・中-773頁)。 >>867
義光が捨て石にしたことを示す書状は慶長5年9月何日付の何家に伝わった文書?
自分が知ってる慶長5年9月の義光発給文書でそういう内容のものは聞いたことない >>875
資料ありがとう
道理で調べても大日本古文書の吉川家文書にないはずだよ
そもそも収録されてないのか
毛利氏研究の第一人者光成準治氏が史料批判を行い偽文書の可能性を指摘してるとなるとその信憑性は高いな
内容も原文読まないと言葉使いとか微妙ニュアンスが分からんから何とも言えないけど、
現代語訳からはまるで後世の軍記みたいな内容でいかにも怪しいって印象を受ける
出典は中村孝也著・徳川家康文書の研究中巻か
今度調べてみるわ >>874
変えようとしてる奴なんて一人もいないのに
バカなの?
会話も楽しめないぼっち君だろ 1番は毛利輝元だろ
あいつが大阪から関ヶ原に来てたら勝てたはず ふふ…馬鹿だなあ 戦ってやつは 負け戦こそおもしろいのよ!! >>881
水野勝成さん慶次よりもよほど傾いてるのに知名度低いよね >>881
花の慶次を読み返そう
最後の方で長谷堂攻略途中で関ヶ原集結を知らされ殿をやってたろ
あの漫画くらい強けりゃ長谷堂くらい一日で落とせそうだがw
>>867
城の防御に鉄砲が有効なのは後年の島原の乱での原城攻城戦で立証済みだな
立てこもってたのは戦闘のプロではない農民の一揆組が城を盾に鉄砲で武士と互角に渡り合った >>882
花の慶次のクライマックスでの秀吉謁見を見てると
最初は秀吉殺してやると特注の短刀まで用意してたのに最後にはヘタレて正装までして頭下げただけにしか見えない
それをさすが傾奇者慶次郎としたのには違和感が残るw >>819
忍城水攻めを命令したのは秀吉だよ
むしろ三成は途中から合流した浅野長政等に水攻めを辞めて普通に城攻めすることを提案してる
下記の通り秀吉が頑なに水攻めに拘ったから当然却下されたけど
・天正18年6月12日付石田三成宛豊臣秀吉朱印状
「忍之城儀、(中略)水責ニ被仰付候者」
(忍城の事は水攻めにするよう命じられ)
・天正18年6月20日付石田三成宛豊臣秀吉朱印状
「水責普請之事、無由断申付候由尤候、浅墅弾正・真田両人重而被遣候間、相談弥堅可申付候、普請大形出来候者、被遣御使者手前ニ可被及見候条、成其意」
(水攻めの工事は油断なく行うよう申し付ける
浅野長政と真田昌幸にもこの事はよく命じてあるので、相談してしっかり作るように
堤が大方出来上がれば、使者を遣わしてその状況を見聞させるので、そう心得ておくように)
・天正18年7月3日付浅野長政宛豊臣秀吉朱印状
「菟角水責ニ被仰付事候間、其段可申付候也」
(とにかく水攻めにするよう命じるので、そう心得るように) 天草四郎は浪人の倅だし、たくさん浪人者がいたけどね 命令∶堰を28kmさっさと拵えろ(太閤殿演コの威光を示しbト開城させろ)
回答∶水攻めと決め込んで諸将が動きません、こんな方法ではダメですご指示を
結果∶3mの半端な堰で城には効かず、かつ決壊して自軍の兵が死亡
結論∶三成は暗愚 1、サルが色々悪い
2、兼続が泥棒したから悪い
3、景勝が土下座しなかったとか色々
4、花の慶次が本気出さなかったから
この辺が敗因だな >>882
それでも家康曰く水野家では1番まともな人間というのがなんとも
息子や孫も酷かったようで >>882
水野勝成は大河にも向いてると思うんだけどね。 >>884
鉄砲は攻撃側と防御側両方の攻撃力を増している。
それにより損害は出やすくなったが出血を覚悟することで強襲での決着がやりやすくなった。
防御側の火力が貧弱な場合、巧妙に普請された山城であっても長くは持たない。
防御側の火力が強力であれば、城の防御力によって強化された火力は手が付けられないことになる。
要するに、鉄砲以前よりも城の防御力が籠っている兵力次第という面が強まった。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています